私の独自な神道観念を公表するつもりだが、言葉で言挙げせぬ神道を説明すること自体は疑わしくて困難だろうし、私の独自な観念であれば、「神道」と呼ぶ根拠はどこにあるか訊かれてもおかしくない。だから、具体的な内容に入る前に、私の考え方や私の観念の根拠についてちょっと説明したいと思う。
神道といえば、定義についての論争は少なくない。最近刊行された岡田先生の編集の『日本神道史』で、第一章が「神道とは何か」と取り組む。歴史の本だから、歴史的な定義を定めるが、ここでより哲学的なアプローチを取るので、より哲学的な定義が必要になる。特に現在が興味の焦点となるので、千五百年前の神道の状況や存在が直接に関わらない。
一方、歴史を無視することも出来ない。教義や教典はない神道なら、実際にあった神道以外定義の素材はないと言える。つまり、日本人や渡来人がどうやって神道という宗教を信奉したかは、神道の本質を探れば必須な視点だ。私もそれを避けるつもりはない。ただ、ある時代の神道を鵜呑みする方針でもない。
その理由は、私が知っている限り、今まで体系された神道のすべてには抵抗感があることだ。最近の例から始めたら、国家神道の国家主義や和尊他卑といえる思想を認めない。国家神道を神道に対する国家の弾圧として捉えるベキだと思うし、神道の主流から除外しても間違いではないとも思う。そして、神仏習合の両部神道は、仏教の教義が入っているので、仏教の教義を信じ難く思うため、それも避けたいのだ。吉田神道といえば、吉田兼倶によって想像されたので、鵜呑みするための根拠が完全に欠けている。
過去の学派神道や教派神道に対しての態度を一括りにしたら、以下の通りであろう。神観念や倫理についての概念を考えたら、古から信奉されたからと言って、必ず信じるべきとは限らない。昔、或る人がこの概念を提唱したことは、受け入れるための証拠にならない。今現在、概念の内容を検討して、他の知識や現況に参照して、慎重に論じるべきだと思う。だから、国学者のように外来の思想が入る前の神道を探る動機はあまりない。昔の神道は、昔の日本人の信仰に過ぎないからだ。「純粋の大和魂」であることは、推薦に至らない。歴史的には興味深いだろうが、宗教的に、それに哲学的に、特別な資格を持たない。
しかし、前に述べた通り、実際にあった神道ぬきに現在の神道も、私の独自な神道も語れない。一から宗教を想像ことはできるし、したこともあるが、それは神道ではないのだ。(作品のなかで架空な宗教が出てくるので、宗教の創造する必要があった。)だから、神道の歴史や現況を踏まえて私の神道観念を構成する計画だ。神道の歴史は、この視点から考えたら、極めて重要なことだ。軽視すべきではないし、むしろ重視するしかない。
それに、伝統的な祭祀や儀式を考えたら、古から継がれてきたこと自体がその儀式の推薦や強みになると私が思う。確かに昔許すべきではない習慣や儀式もあったので、絶対的な推進にならないとはいえ、悪質のない儀式であれば、現在にちょっと合わないと言っても、昔のままで継続したほうがいいと述べたいのだ。だから、神道のなかで見える昔から継承された祭祀を重要なところに据えたいのだ。祭祀の意味は、現在また探検するべきだが、意味を問わずに祭祀の形を保つべきだ。
神道の祭祀をそのまま受け継がれたら、それで神道であると言えるかというと、実はそうだと思う。神道には、必須な芯はないと思うようになった。必要不可欠の芯の候補を三つ考えてみよう。
一つは、天皇だ。神社本庁の書物を見たら、天皇抜き神道になれないような印象を受けるが、それは神社本庁流神道に限ると言えよう。実は、前の投稿にも述べたが、祝詞例文集を読んだら、これが明らかになる。神社本庁が作成して出版した祝詞には、必ず天皇や皇室に触れる句が含む。一方、日本中の神社から集まった祝詞の例文に、天皇に触れる句は極めて異例で、古代から朝廷の祭祀に関わった神社に限るとは言える。神道の分析でも、天皇が中枢に据える朝廷の祭祀を別な枠に入れて、神社の祭祀から区別する方法は普通のようだ。だから、天皇の存在感が極めて薄くなっても、まだ神道である可能性が残ると認めるべきだ。
もう一つは、自然崇拝だ。特に西洋で神道が自然崇拝する宗教として捉えられる。だが、前の段落と逆な立場から論じたら、天皇や国家を重視して、自然の現象を別に触れない神社はまだ神道の神社である。靖国神社は神道の神社であるのは否めないのに、桜名所とはいえ、自然崇拝まで至らないだろう。
最後に「大和魂」を神道の必須要素として挙げる人もいると思う。だが、これも必須ではない。儒家神道や両部神道では、本居宣長が大和魂からほど遠い思想として糾弾した色は濃い。極端な話にすれば、稲荷信仰の起源には渡来人が立つし、八幡信仰の創世も渡来神だったと多くの学者が認めるようだ。垂下神道を神道の主流から除外しても、稲荷や八幡を除外するわけはないだろう。
神道の芯はないと言ったら、神道の真髄は何だろうと聞かれるだろう。私の考えは、神道的な要素がいくつかあるが、その要素のなかから選ばれた成分が揃ったら、神道の一種だと言うべきだ。だから、自然崇拝は神道の要素の一つだし、天皇も同じだし、大和魂もそうだ。大和魂を重んじて、天皇を中軸として据えた自然崇拝な宗教があったら、それを少なくとも神道的な思想と認めるべきだろう。
しかし、神道には実践が思想を凌ぐので、神道的な行動がない宗教を神道の一種と認めないほうがいいだろう。祝詞やお祓い、神楽や御神輿、禊、玉串などは、神道の要素でもあるだろう。
例を挙げよう。ある宗教で、自然崇拝するし、宣長の大和魂を重んじる思想で、禊を儀式の中心にして、玉串拝礼と祝詞で崇拝するとしよう。一方、天皇の役割は一切ないし、常設の神社もない。神社の代わりに威力のある川や池で臨時斎場を設けて、拝めるような宗教だ。お祓いも神楽も神輿も使わない。それでも、神道の一種だと言いたいだろう。一方、天皇を頂点に頂いて、神社を設けて、お祓いの後で神楽を奉納して神輿を巡行させる宗教も、儒学の思想に基づいても神道の一種として認めるのは当然だろう。だが、この二つの例には、共通点は一つもない。こういう風に必須芯はないと言いたいのだ。
私の方針が以上の考え方から発生した方針だ。神道の歴史や実践から評価する要素を選んで、組み合わせて私の神道観念を構成する方針だ。伝統を尊重する新神道だとも言えるのだろうが、私自身の感性で、神道の解釈だとも言いたいのだ。この方針に沿って進む為に、先ず要素を選んで、解釈したらいいと思う。要素が複数並んだら、組み合わせに焦点を移す。だから、これから私にとって重大の神道の要素について書かせていただきたい。
コメント
“神道観念の計画” への1件のコメント
この計画に賛同します。
また、ご自身が最もふさわしいとも思います。
多かれ少なかれ、非言語的な神道的土壌に育った日本人にはかえって難しいでしょう。
神道には、非常に包括的な事象が含まれますが、おそらく普遍的な言葉によってこれが記述できたことはありません。大きな哲学的ロマンを感じますね。