高部屋神社は式内社で、大山街道に鎮座する神社だ。由緒がある式内社であるものの、神職はいなかった。それでも、立派な神社だった。拝殿は藁葺きで、彫刻も施された。あいにく、この神社でカメラの調子が悪かったので、いい写真は少ない。(レンズに湿気が付いたようだったので、画像が曇っているし、光で詳細が見えない場合は多い。)
旧相模の国の大山街道に近い神社の多くのように、この神社の境内にも、鐘があった。それに、梵鐘で、神奈川県の重要文化財だそうだ。案内板によると、1386年の作品で、仏教色は特に濃い。当時八幡神社だったそうだが、神仏分離の前に八幡信仰が深く仏教と関わったので、当たり前だ。当たり前ではないことは、まだ神社の境内にあることだ。明治初頭に仏教色を払拭する運動があったが、先日参拝した塩竃神社で松尾芭蕉に讃えられた灯籠の仏教色のある蓋を取り替えたほどだった。何回も述べたが、大山街道の神社には鐘は多いので、廃仏毀釈が徹底されなかったようだ。戦後に再建された可能性もあるが、それでも理由が探りたくなる。
一つの仮説として、大山街道の目的地の大山が挙げられよう。明治維新まで修験道の道場だったそうだから、仏教の要素は不可分だった。それに、町民の信仰が篤かったそうだ。その影響で、参拝する道に近い神社にも仏教の要素が波及して、住民には取り外す気はなかった。そして、特に影響のある神社ではなかったので、政府がわざと廃仏毀釈を徹底させようとしなかっただろう。
これは仮説だけだが、この周辺の神社の特徴として鐘が目立つことは事実。
その他、境内社は多いし、八坂神社もある。八坂神社というのは、旧祇園さんだから、それも神仏習合の信仰だった。そして、もう一つの案内板によると、雨乞い行事も伝統的であったが、最後に行われたのは昭和8年だったそうだ。農業からどんどん離れてきた地域には、雨乞いの重要性が薄まれただろう。
この神社もいい雰囲気だったが、常駐の神職はいないことは残念だった。周りの人口は少ないだろう。