下関に鎮座する神社の一つは赤間神宮である。「神宮」と呼ばれる理由は、ご祭神は安徳天皇であるからだ。明治時代まで、「神宮」は伊勢の神宮、鹿島神宮、そして香取神宮に限られたが、明治時代の神社行政が「神宮」の社号を皇室と特に縁のある神社に与えた。だから、天王を祀る赤間神宮が「神宮」の社号を受けた。
安徳天皇というのは、平清盛の孫にもあたって、壇ノ浦合戦で平家によって幼いうちに殺害された。普段の言い方は「入水された」というが、子供を溺れさせるのは殺害以外何物でもない。死後、阿弥陀寺に葬られた。明治時代になったら、このお寺を神社に強制的にされた。皇室の祭祀を神道に統一する方針だったので、天王の陵墓を仏教のままにするわけにはいかなかった。
この歴史の結果、神社の建築はお寺に見える。神社のシンボルになった水天門は一番目立つ。境内に入ってから、圧倒する存在感がある。拝殿の形も独特である。拝殿の中には池があるし、拝殿は水に渡ってある。
この形式には二つの意味が込まれているかと思う。一つは、ご祭神が海で崩御したことに因む意味だろう。この点で、神社が関門海峡に向かうことも、参道が道路を渡って海に入る階段で終わることも同じ意味につながると思える。もう一つは、平安時代の貴族の住居に倣うことだろう。ご祭神の生前を甦ることは当然な構えだろう。
私たちが参拝した日に、雅楽のイベントがあった。だから、拝殿の前で拝礼した時に、中から雅楽が聞こえたのでお参りする環境がさらによくなった。そして、有力な神社で、財産不足の兆しは全くなかったし、巫女さんも多かったような印象を受けた。それは、イベントのために巫女さんを皆起用したからだろうが。
理論的に考察すると、赤間神宮は私の好みではない。本来なら寺院であるし、明治時代の国家神道の産物で神社として新しい。それに皇室を礼讃する神道と深く関わるが、私は自然崇拝や共同体の心の拠り所の神道のほうが好きだ。しかし、実際にお参りすれば、神社の雰囲気は良かったし、心が落ち着いたところだった。やはり、由来から神社を事前に評価するべきではない。神道は、理論より実践を重視するので、神社を体験しないと何も判断できない。赤間神宮の境内には平家と縁のある施設も多いようだが、全てを見る余裕はなかった。一人でまたお参りしたいと思うが、下関は関東から遠いので機会を得るかどうか分からない。
赤間神宮は、悲劇に生まれて、更なる悲劇の中で生まれ変わった神社だが、それを乗り越えたと言おう。