小倉城の隣に豊前総鎮守の八坂神社が鎮座する。神社の由緒によると、9世紀頃から小さな祇園社が小倉に鎮座したそうだが、17世紀の江戸時代になって、新しい藩主の細川忠興が荘厳な社殿を建立して、城下町に遷座させたという。ここで伝説があるようだ。
鷹狩りに出た忠興公が小さな祇園社の祠を見つけた。中のご神体を見ようとして、杖で祠の扉を開けようとした。その瞬間、祠の中からたかが飛び上がって、忠興公の目を蹴った。ほぼ失明になった忠興公が深く反省して、怪我を神罰として捉え、城下町の立派な社殿に神様を遷ったという。神社が建立されたら、忠興公の目の快癒したとの伝説がある。仏教色は濃い「祇園社」の殆どは明治時代に「八坂神社」に改名させられたし、昭和初期に現在の城内の鎮座地に遷座されたそうだ。その後、小倉城の天守は再建されたし、リバーウォーク北九州というショッピングセンターが建設されたので、今のところ小倉の中心部にまた鎮座していると言えるだろう。
この神社も、博多の櫛田神社と同じように都市の賑やかな境内を持っている。特徴は複数ある。まずは、拝殿には鈴が九つ並ぶので、大勢の人が同時にお参りできる。ご祭神も多い。北殿と南殿に分けられるが、合計15柱になる。とは言え、櫛名田比賣命は両方の本殿に鎮まれるし、北殿に須佐能袁命が、南殿に須佐之男命が鎮座する。これは同一神であるのは言うまでもないが、同じ神社で座によって表記が異なるのは面白い。
南殿のご祭神の一柱は、顕仁天王である。読み方は「あきひとてんのう」。今上陛下の名前は「あきひと」であるのはご周知の通りだが、漢字は「明仁」だし、日本語で「あきひとてんのう」の呼び方は使われていない。(英語で、宮内庁の正式な呼称は「Emperor Akihito」であるけれども。)戦前に今上天皇を「現人神」と呼ばれたが、この「現」は、「顕」の字でも表されることもある。顕世は支社の世界の隠れ世と対称されることもある。だから、このご祭神の真相はまだ不明であると思う。
そして、境内社も多い。ちょっと珍しい猿田彦社もあるし、よくある稲荷神社もある、神明社、春日社などなど。特に面白いのは、古札の置く場所だ。普通の神社で、ただの小屋だが、この八坂神社で古墳みたいな建物がある。中を覗いてみれば、お札は沢山置かれていた。焼け跡はないので、焚き上げする前に中から出すと思うので、この建物にはどの由緒があるのかなと思った。
そして、境内への門の形も珍しい。「楼門」と確かに呼べるが、一階はない。この門は、元々お城のもんだった可能性もあるが、他の神社で同じような門を見たことはない。
境内社は多くて、大勢の参拝者への対応もあるし、社務所は賑やかで参集殿も広い。この神社が栄えているように見える。例大祭は祇園祭だから、町中が賑わうと想像できる。それでも、この神社について読んだことはないと思う。日本中、8万の神社があると言われているので神社に詳しい人でも、立派な神社についても知識は全くないことはあるのは当然だ。これからも体験を積み重ねたいと思う。