一体感

先日、部分的に重なる共同体について投稿した。その投稿で、団体の本質のことに触れた。自由も共同体も維持するために、団体の中の絆を網にして社会を一体化する方針だが、それが叶うために団体内の絆の本質は重要だ。今日の投稿でその点について考えたいと思う。

役割を果たせる団体の例は、核家族だ。多くの場合、兄弟が何かの行動に参加すれば、その行動の禁止に反対するし、そのような行動をする人の弾圧に反対する。例えば、兄は登山家であれば、登山禁止令に反対するのは当然だろう。妹はキリスト教の牧師であれば、キリスト教の弾圧に反対するのは当然だ。例外があるのは言うまでもないが、兄弟を支持するのはごく普通のことで、むしろ例外に驚く。このような絆は必要だ。

最初に指摘する点は、この絆は個人と個人を結ぶことだ。個人と団体を結ぶ絆は、団体を保護するために他の委員を排除する選択肢を選ぶ恐れがある。そのような絆は、むしろ社会にとって危ない。団体間の軋轢や争いを招きかねないからだ。だから、このような個人を結ぶ絆を作り上げる団体は良い。

そして、この絆は、強くなくてはいけない。自分が好ましく思わない行動しても、さらに自分が避けた方が良いと思う行動をしても、やっている人を支持するほどの絆は必要だ。

この条件を満たす団体を考えれば、要素が徐々に明らかになるだろう。先ずは、小規模な団体だ。他の団体員を個人としてよく知っているようにならないと、このような効果は期待できないからだ。大きな団体や組織には重要な社会的な機能や役割があると思うが、この役割を担えない。小規模と言えば、10人前後までかな。もう少し大きくなっても、団体の中の絆の網で同じような効果があるだろう。親友の親友も支持するのは当然だろう。その親友の親友は自分の知り合いで、一緒に行動したことは多い場合、さらに当然になる。30人程度まで、親しい関係を一つ挟んで誰ともつながる規模になるかと思う。二つが挟まれたら、効果がもう希薄になるかと思うので、このぐらいな規模は良いととりあえず言おう。

そして、よく集まって協同することも重要だ。ただ試合を観賞することや講義を受講することは足りないと思う。一緒の協同することで、つまり積極的に何らかの目的を目指して一緒に頑張ることで、絆が作り上げられる。特に、一緒に苦労することで強い絆が発生する。家族もそうだが、職場の同僚もそうなる場合は少なくないだろう。この苦労は、意図的に自分に課す苦労でも良いようだ。例えば、一緒に登山することとか、一緒に荒祭りに参加することなどは、絆を作り上げるそうだ。一見で無意味な危険に見えることは、実は重要な意味や役割を持っている。

これ以外、目的は何でも良い。スポーツのチームは一つの例だが、手芸を一緒にして協同作品を出す団体も同じような効果がある。共同研究も期待できるし、宗教的な活動も、社会福祉の活動も、人道支援の活動も、探検も、伝統文化の継承も、真新しい文化の創造も、私に思い浮かばない分野も、全てには効果がある。だから、人には自分に合う内容を選ばせるべきだ。

国家の役割は、このような団体を結成することを簡単にすること。そして、維持する活動には妨げを置かないこと。最後に、一人が複数の団体に入るように、それに団体の組員が異なることを促進すること。団体の内容に国家が干与すべきではないと思う。(犯罪目的の団体を当然除く。)

このように複数の団体で人が一体感を感じれば、もう一つの利点がある。一つの団体でトラブルが発生して、絶縁になるとしたら、他の団体で精神的な支援を得られる。その結果、嫌な環境に置かれたら、脱出できる。唯一の支柱を失わないからだ。これも、自由に貢献すると思う。


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