基礎収入が老若男女に給付されたら、誰も働かないことは恐れているのだろう。お金は不用であれば、働かないのは当たり前であるとの考えだ。
私は、そう思わない。
先ず以て、年収100万円は多くない。生活を維持することはできるが、旅行などは難しいし、贅沢なことは決してできない。だから、一般の人には、働いて収入を増やす意欲が残ると思う。もちろん、人間の労働は社会には全く不要となったら、基礎収入をより高い水準に設定するべきだと思うが、それは現状ではないし、近い将来には実情になる気配はないので、経済的な労働への動機が残る水準は良いと思わずを得ない。
そして、ただ単にお金のために働く人はそれほど多くない。人間の心理で、役に立てば気持ちがよくなるので、働きたい人は多い。ボランティア活動に参加する人はその明らかな証拠だ。特に年金生活を送っている方はボランティア活動に参加することは多いし、専業主婦もそうだ。だから、お金をもらわなくても何かを使用とする人は多い。お金ももらえれば、さらに増えるのではないかと思う。だから、お金を必要としない人は、魅力がある仕事に就職するはずだ。
確かに、収入は唯一の魅力点である仕事は問題になる。人が就くために収入を割高にしなければならないだろう。しかし、それは自由市場の常識だ。誰もしたくない仕事は、収入を増すしかない。その結果、例えばゴミ収集をする人の年収が500万円を超えても、問題はない。本格的な自由が市場に導入されれば、収入ランキングが変わるのは当たり前だ。それでも、技能は必要な仕事の収入は高い水準を維持すると思える。なぜなら、できる人の人数は限られているからだ。そのような人は雇いたくても、すぐにできない。だから、今の収入より高い金額を提供しなければならなくなる。そして、基礎収入があるので、提案の年収に不満を感じれば、拒否しても良い。
このような仕事の意欲は、江戸時代の侍を考えれば考察できる。国学や蘭学、文学や教師の活動は多いが、それは収入のための活動ではなかった。その上、まだ需要はないこと、そして成功になるかどうか分からないことと挑戦できる。お金にならなくても平気であるからだ。美術や研究の分野で、これは非常に重要なことだから、大きなメリットになる。その上、最先端の美術や研究と取組む人は、お金のために取組むわけではないので、基礎収入の存在は拍車をかけるに違いない。
それでも、何もせず基礎収入に頼る人も発生する。これは間違いない。それで良いと強調したいのである。自由を保障すれば、無駄にする人は存在する。それは覚悟しなければならない。心理学を踏まえれば、このような人は鬱病に陥る恐れがあるので、活動を促す方針も導入するべきだし、何もしない人を最低限まで抑えるべきだが、消滅できないことは否めない。
しかし、1割を下回る小さなグループであれば、問題はない。働く人は、自分のために働くので、羨ましく思う必要はない。これは重要だ。現行の制度では、憎む職業で生活のために働く人は少なくないので、何もせずに生きる人も憎むようになるのは当然だ。一方、基礎収入がある社会には、そのような仕事に就く人はゼロに近いので、自分の仕事をどうしても辞めたいと思う人も少ないので、何もしない人を可哀想に思う傾向が強くなる。
つまり、労働力の供給が問題にならないと思う。そして、さらに利点があるが、それは明日述べたいと思う。