人間は人間だから、なんの社会でも犯罪が発生する。犯罪を抑制したり、一般の人を犯罪者から守ったりするのは国家の重要な役割だが、自由を重んじたら、問題がある。それは、国家の勝手な基準によって人に罰を与える根拠は何だろうという根本的な問題である。
この問題には簡単な解決はないと思うが、それでも国家が犯罪に向き合わないとダメだ。だから、どうしたらよいかを考えるべきだ。
犯罪者が周りの人の生活などを脅かす場合、刑務所で拘束しなければならないだろう。殺人者はもちろん、相次いで窃盗を犯す人もそうだ。しかし、これで二つの重要な条件を覚えなければならない。
一つは、国家の善悪の判断は必ずしも正しいとは限らないこと。明らかな例は宗教の歴史である。日本でキリスト教を禁じた時代もあったし、ヨーロッパでイスラム教を禁じた時代もあった。どちらの宗教は正しいかを置いておいて、宗教の実践を許すべきであるのは今の常識であるので、吉利支丹であることを理由に人に罰を科すことは国家の誤りだったと思わざるを得ない。殺人は一般的に許すべきではないことは揺るぎないだろうが、許すべき場合はたまにある可能性を排除するのは難しいので、明白な殺人者でも罰を科すべきではない場合さえあるかもしれない。
もう一つは、警察や検察が間違えて、もしくは捏造して、冤罪を犯すこともある。つまり、罰に遭う人は必ずしも真犯人であるとは限らない。
これを踏まえて、最悪の場合でも弁明できる罰を科するべきだと思う。だから死刑に絶対反対する。間違えて人を殺したら、巻き返すことはできない。
しかし、警察や検察の取り調べの上、裁判所で有罪と言い渡された人の自由を、ある程度縛っても良いだろう。具体的に、その人を良い方向に強制的に導くことはできるだろう。
普段は、社会は一人の人間に自分に悪いことを禁じてはいけない。自分の人生をダメにしたかったら、許すべきだ。しかし、犯罪者であれば、良い方に強制的にさせても構わないだろう。それは、犯罪者のためのことだ。
簡単なことから始まったら、刑務所で栄養が良い食べ物を食べさせたり、適切な運動をさせたり、麻薬はもちろん、タバコやお酒も禁じることで、健康になるようにする。その上、識字などの問題があれば、勉強させて直す。そして、犯罪を起こさずに生活が立てられる技能も教えるのは良い。最後に、他の人との関係が結ぶような心理的な教育も強制的にさせること。つまり、刑務所から出たら、社会に貢献できる人間にさせる。ほとんどの犯罪者にはそのような問題があって、犯罪を犯すそうだから、このように立て直させる行動には効果が来たできると思う。
もちろん、このような形であれば、刑務所が魅力的になる恐れがある。そのために、裁判官は刑務所を必要とする人のみを刑務所に収容させる方針が良い。他の犯罪者をどう扱うべきか、後日に考えたいと思う。