先日、真由喜の小学校で授業参観日が開催された。私もゆり子も参加したが、仕事関係で私が参加できた時間はちょっと少なかった。それは国語の授業で、「お店ごっこ」の内容だった。つまり、児童らが参観日の前にお店の「しなもの」カードと宣伝を用意して、当日に「お客さん」とのやりとりで日本語でのコミュニケーションを向上する計画である。そして、その前日にあった音楽会で、みんなで感想を述べる場があったが、ゆり子によると、児童らが積極的に参加したそうだ。ゆり子がびっくりしたそうだが、私はびっくりしなかった。なぜなら、読み聞かせに行くとき、余裕があれば児童の感想が求められる。ゆり子は、自分の小学生時代にはこのような活動はなかったと言うが、自分の意見を述べるのはアメリカ人の特徴だと思ったそうだ。
向丘小学校がよくできていると思うが、これは文部科学省の教育要綱にあるとも思う。なぜなら、10年、15年前の日本の教育に対する批判を思い出せば、子供を消極的にさせて、自分の意見を考えて、纏めて、発表する場はなかったということは主流だった。つまり、批判を受けて、教育を改善した。それでも、今でも同じ批判を耳にする。海外からの批判には多いが、国内の批判としてもあるような気がする。
同じような身近な例がある。私の監督するゲームについての批判があったが、それが具体例になったら、10年以上前に刊行した本に載った。この問題は、ほぼ10年前に気づき、改善に努めたし、そういうことを言ったら、最近の本はやはりましであると認めてもらった。それでも、10年前の例がまだ頭に目立つようだ。
もう一つの顕著な例。去年のネットでの記事で、ある分野での女性へのハラッスメントについてだった。ある女性への取材で、その女性が「問題は確かにあったが、5、6年前から改善しつつあると思う」と述べた。記事が下記のように続いた。
「しかし、本当にそうだろうか。◯◯さんに聞いたが、2007年にはこの酷い経験があったそうだ。」
2008年か2009年から状況が改善してきたとすれば、2007年の出来事は全く無関係である。むしろ、2007年にはひどい出来事があったら、改善の可能性が高くなるとも言える。良い状況をさらに改善するのは難しいからだ。それでも、記事のコメントでだれもこの点を指摘しなかったし、記事についての議論では、このことは触れられなかった。
人間は、改善に気づかない傾向があると思う。絶対的ではないが、過去の良くない状況を現状として思い込む傾向は確かにある。
それで、何だろう。
改善の努力を止めるわけにはいかない。ただし、その改善の広報にも努めなければならないだろう。それを可能にするために、問題を認めなければならない。ずっと「問題は全くない」と強調してきたら、急に「問題を改善した!」と強調したらおかしい。問題を潔く認めて、改善に努めて、その成果を堂々と広報する。それはいい方針だろう。