少数者と人権

少数者が弾圧されないように、一つの手段は人権である。人権は極めて重要だと思うし、尊重するべきであるとも強調したい。

人権の重要な役割の一つは、少数者を守ることである。つまり、人権は、民主主義で多数派がある行動を選んでも、実施を禁止する。例えば、イスラム教を禁じるような法律が国会で立法されたら、憲法で定めた人権の違反として、最高裁判所が直ちに無効とする。この点は忘れてはならない。人権は、少数派を多数派から守るために存在するので、ちゃんとした民主主義で多数派が選んだ道を塞ぐことはある。人権は、民主的に定められた規則であるとしても、定まったら多数決より優先されるべきだ。

もしかしてさらに重要な役割は、国民を政府から守る役割だろう。人権は、政府がしてはいけないことを定めるので、政府がそれをしようとすれば、止められる。

人権に拘束力を与えるために、国家の法律に指定しないといけない。しかし、政府と多数派の行動を拘束する目的を持っているので、政府も多数派も気軽に変えられない法律に定めないと意味は全くない。だからこそ、人権を憲法で定めて、憲法改正の手続きを普通の立法手続きよりハードルがかなり高い制度にするべきである。

しかし、人権にも限度がある。人権は、行動を禁じる規則とするべきだと私は思う。なぜなら、行動を止めるのは、誰でもいつでもできることであるからだ。人権で「言論の自由を縛ってはならない」とあれば、政府は言論の自由を縛らない。財政危機が如何に緊迫になっても、言論の自由を侵すことは避けられる。同じように、「家族を破壊してはならない」としたら、力が如何に微弱になっても、しないことはできる。だから、絶対的な規則として設定しても大丈夫である。このような人権は、少数派の保護や一般国民の自由にとって、基礎的な存在である。なくてはならない。それでも、すべてではない。

このブログに何回も述べたか、実質的な自由は必要だ。少数者もそうだ。実質的な自由のために、他人の妨害を防ぐのは不可欠であるが、十分ではない。障害者の場合、これは浮き彫りになる。足が不自由な人は、富士山の山頂まで登ることは禁じられていない。しかし、禁止令はないことだけで登れるわけではない。これは顕著な例だが、一般に同じである。周りの人の協力を得ない限り、何もできないのは人間の状態である。ただし、この協力を強制的に要求することはできない。まず、必要な力はないこともある。そして、限度がある資源は、誰に使うべきを決めるのは、社会の役割の一つである。絶対的な人権で解決しようとすれば、問題がさらに深まるだろう。実質的な自由の確保は、より柔軟な過程で実現するべきだと思う。

英語で諺がある。「金槌しか持たなければ、何でも釘に見える。」人権もそのような傾向があるのではないか。人権は、ある重要な問題の解決策であるので、その周辺にある全ての問題の解決策とする人はいるような印象を受けている。そうではない。

明らかな例を挙げよう。満足できる性生活は、人間の精神的な幸せにとってとても重要であると言われる。信じ難くない。だから、他の人へ被害を与えない性生活を禁じるべきではないと活動家が主張する。その通りだと思う。同性愛者の性生活を禁じるべきではない。しかし、禁じなくても、同性愛者はとにかく、異性愛者は相手を必ずしも見つけるとは限らない。では、満足する性生活は、人権にしようか。それは明らかに大問題である。なぜなら、ある人が欲しい相手を強制的に性交させることとつながるからである。性交が欲しい人の欲望を否定することを人権侵害と看做したら、そうなる。だから、人権は、この問題の一部しか解決できない。

他の問題は、話し合って解決する。(色欲について気軽に話し合えないこと自体は社会的な問題だろうが、それは例に過ぎない。)民主主義は、その話し合いを可能にする手法の一つである。ここで、少数者は民主主義へ影響力は及ぼせない問題がまた浮上する。次回、その解決策について論じたい。


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