神道は、何だろう。勉強すればするほど不明になるような気がする。実は、自然に現れた現象について考えれば、この結論は珍しくない。一般論の例外を発見したり、重層な質を把握したりする。最初、明らかに見えたことがどんどん霧に消えてしまう。それでも、最初に出会った存在は幻に過ぎないと思えないので、その本質をさらに追求することは多い。解明するために、必要条件や十分条件を探すのは当然だろう。必要条件というのは、この要素はないと、該当しない条件である。十分条件は、この要素を有すれば、該当するという条件である。両方あれば、十分条件に全ての必要条件が含まれるのは必然的だ。
十分条件は稀である。例外はありすぎるからだ。だから、必要条件を探すことは多い。「これはないと、神道だとは言えない。」実は、英語で神道を論じる人が必要条件を立てて、そして明治時代の前に満たされなかったことを説明して、神道は、明治維新ととも誕生した宗教であると強調することさえある。慎重に検証した学者でも、必要条件を設けることは多い。そうしないと、「神道」という用語の使い方がわからない、という心配から発生する傾向だと思う。
ある立場から見ると、「神道」であるかどうかは重要ではない。平安時代の神社での祭祀を「神道」と呼ぶか、「神祇祭祀」と呼ぶか、祭祀自体は変わらないし、現在の同じ神社での祭祀との関係も変わらない。しかし、立場を変えれば、用語の使用は重要である。同じ用語を当てる存在は、同じように考えることが役に立つと保証しなければならない。つまり、平安時代の祭祀を「神道」と呼べば、現在の「神道」と共通点があると言っているようだ。その共通点は、必要条件であるのではないかとも思える。
しかし、そうではない。確かに、二つの例を考えれば、そう見える。平安時代の祭祀と現代の祭祀との共通点は存在しなければ、両方を「神道」と呼ぶのは誤解を招くばかりだ。そして、その共通点は希薄であれば、それほど役に立たない。例えば、13世紀のイギリスで行った祭祀を「神道」と呼べば、理解に貢献しない。宗教的な祭祀であるが、キリスト教の儀式と神道の儀式の間の溝は深くて広い。だから、二つの例を考えれば、重要な共通点はないといけない。
ただし、三つ以上の共通点を考えれば、状況が変わる。簡単な例をあげよう。祭祀イは、神社で神楽を奉納する祭祀だ。祭祀ロは、神籬で神楽を奉納する祭祀だ。祭祀ハは、神社で神饌を奉納する祭祀だ。祭祀ニは、神籬で神饌を奉納する祭祀だ。この三つは、神道の祭祀である可能性は高い。(用語は神道の祭祀の用語であるからだ。具体的に描写すれば、同じ印象が残るとしよう。)しかし、イとニには共通点はない。場所も、奉納するものも異なる。この三つの祭祀を神道の祭祀として定義すれば、必要条件はない。
私は、神道はこのような構成を持っていると思う。他の宗教は違うかもしれない。例えば、キリストは神様の息子であると信じない宗教はキリスト教の一種ではないと言えるかもしれない。(それでも、曖昧な事例もある。)しかし、神道の場合、よく現れる特徴はあるものの、必要条件に至る必ず現れる要素は存在しないと思ってきた。だから、これから、このブログでその特徴について考えて、指摘したいと思う。