先ほど、このブログで「社会は美術作品ではない」と強調した。それは、自由を重視する理由の一つだった。そして、その後、集団主義の本当の意味を考察したが、民主主義は必要条件であること以外、結論に至らなかった。今回、その二つの概念を一緒にして論じたいと思う。
良い美術作品を作るために、まず含むべき要素を決めて、構成する。しかし、それは一部に過ぎない。合わない要素を削って、切り捨てることもとても重要である。実は、切り捨てる行為の方が重要であると思う作者は少なくない。「作品の完成は、加えることが残らない状態ではなく、削れることが残らない状態である」と言われる。
だから、社会を美術作品として捉えたら、いい要素を入れることも重要だが、相応しくない要素を除外することも重要である。社会は作品だから、除外することは、基本的に人の行為になる。
この場合、自分には影響はないかどうかは関係無い。そして、他人に影響があるかどうかも、関係無い。本人にしか影響を及ぼさなくても、社会の全体像を損なうので、除外しようとする。モナリザの枠の片隅に私の落書きをするようなことになる。私の落書きは、ダヴィンチの才能を産んだ作品の顔を損なわない。そして、絵画の表面にもない。しかし、絵画の隣に私の下手な落書きがあることは、作品の見せ方として悪い。社会での行動は、社会の一部であるので、さらに作品を損なう。この除外は、行動自体を絶滅させることも可能だが、社会から除外することも可能だ。例えば、自分の国で禁じるが、外国でされても文句を言わない。
社会は作品であれば、個人の行動は、その本人の希望などではなく、社会の全体像を考えて決めるべきである。つまり、集団を考えなければならない。そして、権利より義務の方が重要となる。義務は、社会の作品を作るために必要とする行動であるが、権利はしなくても良いことばかりだ。権利を重視すれば、社会を美術作品にするのは到底無理だろう。しかし、個人の見地を抑えようとするし、集団の全体像を重視するのに、これを集団主義とは言えない。集団の意志や発展を重視しないからだ。むしろ、作品を重視する。つまり、これは美的主義の一種であるのではないか。
このことを示唆する言い方も少なくない。「理想的な国」は、憧れる全体像を思わせる。「美しい国」はさらに直接的である。
これは、自由主義と根本的に違う見方であると言えよう。個人の自由を重視すれば、美しい作品の社会を作成することはできない。自由に動く人はその作品の計画と合わないことをしたり、汚したりするからだ。自由主義を擁護すれば、この結果を認めざるを得ない。一方、美しい作品を作るために、個人の自由を潰さなければならない。少なくとも、汚さないようにしなければならないが、全体像に貢献させることもある。
私も、このような理想的な社会の魅力を感じる。「美しい日本」で和装を着ている人が木造の町屋のような道を歩いて、時代劇に見えるような風景があれば、それは確かに美しい。さらに根本的に言えば、皆んなが協力しあって、誰もが幸せになる社会を作り上げる社会も魅力的でたまらない。しかし、それも美的主義である。皆が協力することは、自由を重んじれば、期待できない。
では、どちらの方が良いのか。私は、まだ自由の法に付く。しかし、絶対的な根拠はない。一方、美的主義の方にも、絶対的な根拠はない。自由主義の強みは、自由主義は一つの立場であることだ。美的主義は、理想像の詳細によって数えられないほど多くの立場である。美的主義に付いたら、さらに正しい理想像を選ばなければならない。その選択肢は難しいと思ったら、少なくとも当分の間、自由主義を擁立するべきなのではないかと思わざるを得ない。