権威の源

権威の根拠は何だろう。もちろん、権威のある人は、他の人に委託することはできるが、委託する人の権威は、どこから発生するという質問が残る。先日の川崎市での事件で、少年が権威を振るって、結局13歳の人が犠牲になったと言われるが、その少年の権威はどこから来たのだろう。「権威はなかった」と言いたくなるだあろうが、殺人を犯させるほどの権威を持ったようだ。名称を好まなくても、存在を認めざるを得ない。人は、なんでそのような命令に従ったのだろうか。

心理学の実験の結果を見れば、人間は原則として命令に従うようだ。その命令の結果は大変であっても、従う傾向は極めて強い。「私なら、絶対従わない」と思う人でも、いざとなると従うことは多いようだ。「普通の人は従わないだろう」と思う場面で、殆どの人が従う。だからこそナチスドイツでユダヤ人を抹殺できた。一般のドイツ人だけではなく、多くのユダヤ人が命令に従った。ユダヤ人は殺されるのは知らなかったはずだが、政権は反ユダヤだったことは明らかだった。なぜ従ってのだろうか。

ナチスドイツの場合、結果は極めて悪質だったので、従わない方が良いと思う人は殆どだろう。しかし、ナチスは、民主的な選挙に勝って、法的な手続きに従って政権を強めた。ナチスに従うべきではないと認めれば、政府に従う義務を全面的に否定する虞がある。実は、そう結論した哲学者もいるが、私はそれほどしない。ナチスは難題であるが、それを石として、理解を磨けると思う。

では、ある人に命令を出すための権威は、どこから発生するだろう。相手が命令に服従しても、権威が元々あったとは限らないのは前述の例から明らかだろう。しかし、始まる根拠は見つけにくい。欧州で、個人の人間はそもそも自分の体や心に権威があり、その権威を他の人に譲ることはできると思われるが、そう思わない文明も少なくない。例えば、全ては人間は帝王に服従すべきであると思ったところは少なくない。帝王の権威はどこから来たかと問われたら、神に託す。神の権威はどこから来たかと聞けば、それは異教の証拠であると訴えて、質問する人を弾圧することも多かった。しかし、神の権威はどこからくるかも重要な質問である。人間を創造したとしても、権威があるとは限らない。素朴な例だが、私が他の人のために契約を結んで何かを作ったら、作品に対して権利を持たない。

別な方向から考えよう。権威はなぜ必要なのだろうか。人間は、社会に生きる動物である。社会はないと、人間の生命は辛くて短い。しかし、社会を組むために、規則は必要不可欠である。その規則を下し、実施する機関も必要だ。国際社会の根本的な問題は、そうする機関は存在しないことであると多くの人が指摘する。だから、権威を誰かに与えなければならない。しかし、この必要性は権威者を特定しない。必要だからこそ、人間は権威を強調する人の主張を受け入れる性格を持っているだろうが、最初に権威を誇示する人を支配者とするのは明らかに良くない。ただの偶然であるからだ。

権威は社会に必要だから認めることとしたら、権威の形を描写できる。つまり、社会を良く維持する形は良い。社会に混乱を齎す形は良くない。歴史を見たら、王制は良くないのは明らかである。どこでも、いつでも混乱をもたらしてきた。一方、国会を持つ民主主義のほうが安定していると思える。もちろん、これは早すぎる。江戸時代の日本は、200年以上安定していたが、王制だった。(王様は将軍だった。)そう認めても、この概念が基準となる。権威は社会の安定のために存在するので、社会を安定させる源を認めるべきである。単純の力はこの理由で源としてあり得ない。極めて不安定であるからだ。このように考えれば、良い形を見つけることはできるだろう。


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