美的主義の区域

先日、美的主義で社会を構成する人に機会を与えるべきなのではないかと論じたが、その具体的な方法は考えなかった。このような問題で、具体的になればなるほど難しくなる傾向は強い。英語の諺があるが、それは「悪魔は詳細にある」とのことで、意味は抽象的な話はうまく行くが、具体的に実現しようとすれば、難点が浮上してしまうということだ。このような問題は同じだ。

まず、自由主義を基本とするのは変わらない。理想な社会を作ろうとしても良いが、参加する人は賛同する人に限る。したくない人は、脱出できるはずだ。だから、その区域を出る権利を保障しなければならない。そして、区域内の条例で国の法律を塗り潰す権利を与えなければならないが、その法律の有効範囲は区域内に限る。区域内に住む人でも、区域外で行った行為は区域の法律の対象になってはならない。もう一つは、区域には軍隊を持つことは許さない。そのような行為は、周りの国民に脅威になるので、区域内に限ることではない。だから、軍国主義を実現したい人の目的は禁止されるが、それは仕方がない。他の人の自由を保つためにある人の自由を制限するのは回避できない事実である。脱出する権利が確保されたら、区域内の規則を概ねに自由にできる。区域内の規則に違反して刑罰として監禁されても、それを出て区域から脱出する権利を確保するべきだ。ただし、犯罪は国でも犯罪であれば、区域を出たらすぐに刑務所に収容されると思える。このような制度ができたら、そのような区域にのお住まいを選ぶ大人は基本的に大丈夫かと思うが、すぐに思い浮かぶ問題点は設立と廃止、先住民、そして子供。

子供は、その社会を選んでいないので、別な社会を選ぶ機会を与えなければならない。そして、義務などは、選んでいない。だから、教育を保障したり、身体と精神を保護する法律は、区域内でも外から強いるべきだ。この内容は、自由を最大限保障する方法が良いが、それでも子育てや教育に大きな制限になる。例えば、国家が普通の学校の時間の三分の一を定めて、社会で生きる最低限の知識や技能を教える。区域内でも、その三分の一を教えなければならない。残りは、自分の方針に沿ってしても良いが、例えば女の子に識字を教えない方針は許されない。同じように、日の神様に子供を生き贄とする行為は許されないし、体罰の制限について考えなければならない。大人であれば、暴力を許す社会を許すべきである。決闘を重視する社会は歴史的にもあったので、それを実現しようとする人もいると思える。子供を保護するべきだが、それは体罰を完全に禁止するかどうかは、簡単な問題ではない。体罰を受けた子供は明らかに生き残って、自立した大人になれるので、許すべき範囲に入るのではないかと思える。

美的主義の社会では、周りの社会が悪質として看做す側面があるのは珍しくない。この自由を実質的に認めれば、その悪質な行為も許さなければならない。それは、ある程度子供に対しても許さなければならない。一方、子供はこの社会を選んでいないので、さらに保護しなければならない。そのバランスは難しい。


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