禁足地

神道の特徴といえば、禁足地も掲げることはできる。「禁足地」というのは、普段に誰もが入ってはいけない区域で、一般の人はいつも入ってはいけない区域である。つまり、特別な機会に特別な人にしか入られないところである。このような空間は、キリスト教にはないし、イスラム教やユダヤ教にもあまりないような気がする。一方、神道では極普通のことである。

有名な例は、大神神社の禁足地だろう。大神神社には本殿はないが、拝殿の向こうには禁足地がある。それは、年に一回宮司や神職が入って神事を行うが、それ以外誰も入らない。実は、三輪山全体も「緩い」禁足地である。お祓いを受けないと、登山道に入らないそうだ。しかし、結局誰でも入れるので、もう本格的な禁足地ではなくなった。もう一つの有名な例として、宗像大社の沖ノ島を挙げよう。この島は女人禁制であるし、神職以外は年に一回、特別に許可を得て、神事に参加して、厳密的なお祓いを済ましたから上島しかできない。

しかし、この有名な例に限らない。一般の神社の本殿も禁足地である。本殿に入ることは、ほとんど無い。例大祭でも、宮司でさえ入らない神社は多い。実は、その結果本殿に保管された神像が傷を受けたことさえある。状況を確認するために誰も入らなかったので、虫の襲いなどで神像が破壊されたケースも。だから、年に一回宮司や神職が入って、状況を確認して、必要な掃除などを行うことが普通になっているのではないかと思うが、これも禁足地の概念を維持する活動である。普通に入らないからこそ、毎年の確認が必要とする。そして、確認するときに潔斎など行うに違いない。恐れ多い場所であるからだ。

このような「普通に入れない、中は覗けない」場所は、心理的な効果は大きい。昨年國學院大學で神道の実践講義を受けた場合、祭祀教室での模擬神殿の本殿の部分を覗いてみることができたが、興味津々で見る方は少なくなかった。本当の本殿ではないので、何もないのに。同じように、伊勢の神宮で旧宮を見る機会を取る人は多いし、お白石持ち行事で遷宮の前の新宮を見る機会も貴重である。実は、神宮では重複な禁足地がある。板垣に入るために奉納しなければならないが、それは入場料とそれほど変わらないので、禁足地とは言い難い。しかし、それより中へ入るために、神宮の神職であることや、皇族または政府の閣僚などではないと入れない。入ることが許されても、それは神事の場合に限る。本殿などに入るのは、遷御の義に限るだろう。(それほど詳しくないので、もしかして神嘗祭や月次祭に入るかもしれない。

禁足地の概念は、他の宗教と共有するが、だからこそこの特徴は必要条件にも十分条件にはならない。他の要素と合わせて禁足地があれば、それは神道色を強める状態であると言えよう。


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