『万葉集と神様』の感想投稿で、神道の自然崇拝の要素の触れたが、今回それを神道の特徴の一つとして取り上げたいと思う。
自然崇拝の具体的な表現として、神木は多くの神社で見える例だろう。注連縄を回して、賽銭箱を設けることもあるが、その神様は、木そのものではないと言っても、木と深い関わりがある神様である。伊勢の神宮の式年遷宮の祭祀の一つは、木の下祭と言い、新宮の造営に使用される気の神様を対象とする祭祀であると思われるが、秘儀であるので詳細は知られていない。神宮といえば、天照大御神は太陽神であるとよく思われているが、実はその事実は明らかではないので、ここで強調しない。滝や岩を御神体とする神社はまだ存在することは周知の通りであるが、一番代表的になるのは、鎮守の杜なのではないか。
神社には森があるのはほぼ決まっている。都市部に鎮座する神社は、木を一本で森を構えることもあるが、木々は全くない神社は非常に少ない。元々神様が杜に鎮まったと思われたそうだが、それも神様と自然の密接な関係を語る。
そして、記紀神話や「風土記」、『万葉集』を見たら、自然現象を具現化する神様は少なくない。天照大御神は曖昧であると言っても、風の神や海の神、川の神や山の神、火山の神や火の神、明らかに自然とつながる神は多い。その多くは所謂国神だが、自然現象は国神に相応しいのである。
とは言え、この特徴を強調しすぎないほうが良いと私は思う。現在の神道祭祀を考えれば、直接に自然崇拝の色を帯びるものは少ない。稲作と関わる祭祀は多いので、祈雨止雨や風を防ぐ祭は当然見えるが、耕作を守ってもらうための祭祀は、自然崇拝とは言えないのではないか。農耕は自然ではない。むしろ、人間が自然を塗り替えて、人間に便宜が良い環境を作ることだ。特に、水田は自然な環境ではない。そして、神道界の関心を『神社新報』から判断すれば、自然環境にはほぼ無関心であるようだ。少なくとも、環境問題にほとんど触れない。もちろん、環境問題に深い関心を持つ神職は存在すると思うが、どの職業でもそうだ。(石油会社でもそうだ。)だから、現在の神道では、自然崇拝は重要だとは言えないだろう。
その上、自然崇拝は世界中の普遍的な宗教要素である。確かにキリスト教にはないが、他の古代の宗教の重要な要素であると言われる。そして、現代の宗教にもよく見られる。
だから、自然崇拝は神道の性質を損なわないと言えるが、強めるとは言えない。