先祖崇拝

先祖崇拝も、自然崇拝と同じように神道の特徴として掲げられる。実は、神道の本質を論じる場合、自然崇拝か先祖崇拝かのどちらの方が重要であるのは論争の焦点となることは少なくない。

先祖崇拝は、氏神の概念の原点で見える。氏神の多くは、ある氏のの祖先だったと言われる。それは、実在した人間が神として扱われてきたか、それとも神に氏の原点を仮託したかは、今の時点で判別しにくいのだろう。どちらにしても、祖先を重視したようだ。その上、彼岸もお盆も、もともと神道の祭祀だった。現在、仏教に属していると思われるが、よく考えたら、仏教の死生観の下で、筋が通らない。仏教で、死後地獄を通って、輪廻する。生まれ変わる。だから、お盆や彼岸に墓や実家に戻ることはできない。地獄にとじ込まれているか、それとも別な生き物としてこの世に生きているか。(菩薩になった可能性もあるが、それは死者の皆であるとは、正当の仏教では言えないだろう。)しかし、神道で死者が神になって、子孫を見守ると言われたので、お盆と彼岸でこの世を訪れて、子孫とある種の交流を持つことは十分可能である。

しかし、先祖崇拝についても、自然崇拝と同様に私は疑問を抱えている。

まず、否めない事実は、平安時代から江戸時代まで、死者の扱いは主に仏教に任されたことだ。伝統的な日本の家には神棚があるが、先祖崇拝を行うのは仏壇である。神道で御霊舎というものがあるが、神社の境内に設けられた例を見たことがあるが、家に設置されたものは見たことはない。現在の神道では、神葬祭は行われるが、『神社新報』では先祖崇拝を取り上げる記事は非常に少ない。先祖への感謝は確かに強調されているが、それが祭祀の形をとることは少ないし、「崇拝」に至るかどうかは曖昧である。

そして、神道の死生観は非常に曖昧である。死者の魂が山に行って神になる説もあるが、地下の黄泉の国の話もあるし、海の彼方にある常世の国の話もある。平田篤胤が大国主大神をあの世の主としたが、それは平田派の特殊な信仰だっただろう。先祖崇拝は神道の重要な要素であったら、もう少しはっきりした話があるのではないか。

その上、先祖崇拝は他の宗教によく見える。儒教は顕著な例だろう。これは、神道に存在しないことの証拠ではない。むしろ、普遍的な状況であるので、神道にも見えるのではないかと言える。ただし、広く見えることなら、神道の特徴だと言い難いのではないか。

神道には先祖崇拝の歴史があるのは否めないので、自然崇拝と同じように祭祀に取り入れたら、神道の色を薄れないが、先祖崇拝が見えるからと言って、神道色が強くなるとは必ずしも言えないだろう。


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“先祖崇拝” への2件のフィードバック

  1. 鮎方のアバター
    鮎方

    私も死ねば祖霊舎に祭られることが予定されていますが、それでも神道における先祖崇拝は疑わしく思っています。
    民衆レベルだと平安時代あたりでも人が死ねば(もしくは死にそうだと)大通りに捨てていたと聞きますし、仏教が本格的に平民を救い始めるのは鎌倉以降だとも聞きます。祖霊舎自体も歴史は結構浅いのではないか、とも感じています。

    恐らくは何時からか大きく影響しだした穢れの概念が大きく影響していると思います。
    それゆえに「人が死ぬ」ということ自体は穢れですが、遠い先祖は清らかなのかなぁと感じています(その死は実感できないので)。

  2. チャート・デイビッドのアバター

    鮎方様、このコメントもありがとうございます。確かにおっしゃる通りですね。現在の神道には先祖崇拝が入っていますし、穢れの概念も重要な係わりがあると思わざるを得ません。この点について、さらに勉強したいと思います。神道の死との係わりは、簡単に分析できることではありません。