神道の祭祀は、共同体の祭りであるのは神社本庁の強調の一つである。これは確かに古からの特徴の一つである。神社の例大祭は、氏子全員が執り行う祭りであり、共同体の繁栄を祈る祭りである。個人のための祭りもあるが、それは神社の主な役割ではない。家庭祭りでも、そもそも個人の祭りではなく、家族の祭りである。個人は、一人しかいない共同体として考えれば、神道の祭祀を行うことはできるが、それはちょっと本来の祭祀と違うと言える。
このような感覚は奈良時代にも見える。正倉院文書では、氏神の祭りに参加するために休ませてもらった人の記録があるが、それは個人の祭りではなく、氏の祭りである。中世を考えれば、祇園祭は個人の祭りではなく、京都全体の祭りであった。疫病除けの目的は、京都の住民の皆の利益のためだった。小規模な祭りも同じだった。実は、中世を見たら、個人の祭祀の主に陰陽師に行われたそうだ。神職は、個人の祈願を扱わなかったと言われる。
ただし、明治時代になると、神社は国家の宗祀として位置づけて、個人的で宗教的な要素を退けようとしたので、その前の吉田神道の時代は本当にどうだったか、私はよく分からない。個人的な参拝があるし、伊勢の神宮の御師が檀家のためにお祓いを行ったことも確実だし、山伏は個人のための呪術を行ったようだが、山伏は神道でも仏教でも言える。現在でも、個人的な祭祀は神社でよく執り行われる。だから、個人的な祭祀は神道から切り離すことはできないだろうと私は思う。
それでも、共同体の祭りは中心であることは否めない。今の神社本庁の規定では、個人についての祭りは、いつも小祭である。中祭や大祭は、共同体の祭りに限る。(一見で見れば、唯一の例外は、天皇陛下と関わる祭りだが、それは一人の人間としての天皇ではなく、日本を象徴する天皇を対象とすることは言えるので、本質を考察すれば例外ではない。)
この点も、キリスト教やイスラム教や仏教との相違点である。前者には、個人は本来の対象であるが、個人を対象として、自然に共同体を視野に入れていく。神道の方向と逆である。神道で参籠する習慣があるが、いつも共同体の祭りに参加するための準備であるといえよう。一人になって、自分の悟りを目指すのは、神道の本来の思想ではない。
だから、ある祭祀が共同体を対象とすれば、それは神道的な要素である。ただし、この特徴も、濃い神道色にはならない。他の宗教にも見えるからだ。一方、ある信仰には共同体を重視することはなかったら、それで神道と考えられない可能性が増す。