このブログで何回も私の基本的な立場を説明したが、それは法律や国家の役割は、住民の皆の最大限の実質的な自由を保障することである。最も根本的な自由は、自分の人生を企てて、実現する自由である。その観点から見れば、所有物は必要である。所有物を安定的に持てなかったら、ほとんどの企画は無理であるからである。だから、窃盗は原則として違法にするべきだと主張する。
ただし、その理由は、所有権は根本的な権利であるからではない。寧ろ、人生を企てる自由を確保するための手法に過ぎない。だから、映画などで見える格好いい泥棒を目指す人はどうなるのかな。その目的を許さないだろう。確かに悪質な目標だが、目標は悪質であるからといって禁じるわけにはいかない。保障する自由には、私たちは悪質だと判断する行為を実現する自由も含まれている。だから、盗賊の生活を禁じる理由は、前の段落の通り、他の人の計画の自由を奪うからだ。
これも、ただし、だ。例えば、私は億万長者で100億円の財産を持っているとしよう。(いいな・・・)その場合、誰かが例えば2万円を私から盗んでも、計画には影響はない。だって、まだ99億9998万円が残っている。この窃盗は、自由を損ねていない。悪質は悪質だが、私の自由に損害を与えていない。気づくさえしない可能性は充分ある。その場合、違法とするべきなのだろう。根本的な論理は自由の保護であれば、禁じる理由は見出しにくい。確かに、皆がそうしたら問題になるが、皆はそうしない。皆はそれぞれであるからだ。そして、許すべきではないことを防ぐために、許すべきことを禁じる方針を大変慎重に考えるべきである。一方、フリーターで最低賃金で働いている人から200円を盗みとったら、計画が台無しになる可能性は充分ある。
とりあえず窃盗の一部を合法にするべきかどうかという問題を置いておく。自由の観点から見れば、窃盗罪の深刻度は、金額ではなく、自由への影響である。つまり、被害者の財産と被害額の比較によって決められる。被害者の財産は少なかったら、金額は如何に小さくても問題になるが、ちゃんとした財産を持ったら、被害額の割合は小さいなら、影響は少ない。私の場合、数万円を盗まれたら悔しくてたまらないが、計画には大きな影響はない。10万円に近づけば、ちゃんとした影響を与える。(数万円の予想外の問題に対応できるように計画するからだ。)
だから、警察は、窃盗罪を追求するかどうか判断は、その割合に基づいて決めるべきだ。貧乏な人から200円が盗まれたら、追求するべきだ。一方、100億円を持つ億万長者から1億円が盗まれても、優先するべきではない。大きな影響はないからだ。罰則も同じだ。貧困の人から数百円盗んだり、騙し取ったりすれば、思い罰を科すべきだが、億万長者から数億円を取ったら、法律の範囲内の軽い罰は適切だろう。つまり、財産を対象とする犯罪は、被害者は貧乏であればあるほど力を入れて、厳しく処分すべきである。なぜなら、貧困な人への影響は強いからだ。法律下の平等を尊重するためにこのように考えるしかない。
確かにこれは今の常識と反対であるが、常識は間違っている場合も少なくない。根本的な権利を計画の自由に認めれば、論理が通じるのではないか。