被害、色々

先日、窃盗罪について投稿したが、その中で被害者の自由を損なわない窃盗罪を合法にするべきなのではないかという問題に触れた。もちろん、窃盗罪の一部を合法とすることには抵抗感を持つだろう。少なくとも、私は持つ。しかし、被害についてちょっと考えてみよう。

自分のものが盗まれたら、被害を受ける。それは明らかである。同じように、人に殴られたら、被害を受ける。これも明らかだろう。否めない。また、同じように悪口を言われたら、被害を受ける。これも、否めない。インターネットでその証拠は山ほどある。

しかし、悪口の一部を合法とする。表現の自由を確保するために、その合法性を明記する。もちろん、名誉毀損の罪もあるが、その範囲は厳しい批判に及ばない。名誉毀損は、嘘をつくか、未公開なことを明らかにすることに限るようだ。イギリスやアメリカで、嘘ではない限り名誉毀損にならない。しかし、自分の公開した行動に対する厳しい批判から被害を受ける。それはただの事実だ。批判を受け入れないとしても、その厳しい言われから精神的な痛みを受ける。

実は、私はこの概念と賛成する。自分の精神的な被害を武器に他人の表現を制限できるようにしたら、表現の自由はすぐに意味を失う恐れがある。人に精神的な打撃を与えないように工夫するのは倫理的で理想的であるが、法律によってそのような方法を持たなければならないとするのは良くない。表現の自由は、自分の人生を計画するための重大な自由であるからだ。計画を論じることさえできなかったら、計画は出来ないし、計画を推進することにも表現はよく必要とする。

ただし、自分の計画を実現するために、他人の財産を盗まなければならないこともある。自分の計画は、ドラマなどで出てくる格好いい泥棒になることであったら、明らかだが、他の例も存在するだろう。その場合、なぜ財産に絶対的な保護を法律で定めるのだろう。精神的な被害を認めるので、軽い財産的な被害も認めるべきなのではないか。身体的な被害も同じだ。軽い怪我は、自由を制限しないので、法的に許すべきなのではないか。

もちろん、このような問題は簡単に片付けられる問題ではない。例えば、駅前で殴られたら、心配性になって出かけられないことも予想される。同じように、一人の泥棒が些細なことしか盗まなくても、泥棒が多くなったら、財産が少なくなる恐れがある。その上、お金持ちの人は法律の保護に信頼できなかったら、社会全体への問題が大きくなるのではないか。

だから、適切な方針はすぐに決められないし、些細な窃盗をすぐに合法としないほうが良いと私は思う。ただし、あるべき法制を考える上で、財産や身体の保護も、根本的に考えなければならない。今までの習慣に囚われたら、保護するべきな自由を見逃す虞があるからだ。


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