宗教として、神道の現世主義は特徴的である。来世を重視する宗教は多いからだ。キリスト教では、来世は現世と比べたら絶対的に重要であるので、現世で来世のために準備するのは責務である。仏教も、最終目的は来世でしか果たせない。しかし、神道はそうではない。来世についてのはっきりした教えさえ少ない。
この現象を代表することは、神道の他界観についての論議である。古代神道で、他界について何を考えたかは、不明である。死者の魂が山に行ったか、それとも地下に行ったか、または海を渡ったのか。これほど根本的なことが不明のままにあるのは、このような問題に関心はあまりなかったことを表す。そして、人間を神として拝むことは歴史的に見えるが、それは死者に限るわけではない。天皇の現人神論は顕著な例だが、吉田神道などで人の魂を生前に神社に鎮座させて拝むことも見える。
別な方向から考えれば、神道の祈願の多くは現世利益のためである。合格祈願や心願成就がすぐに思い浮かぶだろうが、明らかに現世に叶うことだ。結婚式も現世のことだし、稲作に関わる祭祀も現世の問題を取り上げる。明らかな例外は葬式だろう。しかし、神道の葬式は神社で執り行われない。それは、汚れの恐れからだそうだ。その上、神道に重視されてきたのは、寺請制度の江戸時代だったようだ。つまり、仏教からの独立を強調するために、葬式を持つ必要があった。その上、神道の祖先崇拝の形は、お先祖様がこの世を訪れたり見守ったりすることは重要である。即ち、死後の世界を考えても、実はこの世であるようだ。
この特徴も、いつから見えてきたのは、実は私は分からない。明治時代の国家神道で、超自然的な要素をなるべく取り除こうとしたので、来世についての教えなども削除された可能性もある。ただし、伊勢神道や吉田神道について読んだ限り、来世を重視しなかったようだ。本居宣長もそうだった。例外は平田篤胤だったが、平田神道は本当に独特で、他の国学者との見解も、吉田神道との見解も異なった。(国学者の四大人に数えられた理由は、平田神道の弟子がその四人を指定したからである。)超自然的な存在が伝統的な神道で重要な役割を担ったが、それは現世での超自然的な存在だったようだ。
この特徴には二つの側面がある。一つは、神道でこの世の利益に貢献する祭祀などは多いことだ。現世利益の祭祀や祝詞は、神道に相応しい。もう一つは、来世を重視する教えは、神道の性質とちょっとずれることだ。
ところで、この特徴は、キリスト教の宣教師が神道を「宗教ではない」とのレッテルをつけた理由の一つだったそうだ。私は、そう思えない。キリスト教に似ていない宗教も存在する。