先日、真由喜の学校の運動会に出席した。というより、立ち会った。立ち見になっているからだ。ゆり子によると、数年前の景観のある保護者と話せば、前日のお昼ぐらいから並び始めたそうだ。シートを敷く場所を取るためだった。もちろん、周りの人の迷惑になったし、バカバカしい現象だったので、ちょっと前から座ってみることを禁じて、完全に立ち見にしたそうだ。そして、今年度は初めて4色チームの運動会だった。昨年度は紅白だったが、今回は赤、青、黄、緑のチームになった。
その一方、ゆり子は運動会はゆり子の小学生時代の運動会と変わらないと主張した。組体操も踊りも競技も、すべて同じだそうだ。それは、信じられる。なぜかというと、900人の児童が通う小学校でも、半日の運動会で皆が競技に参加したり、踊ったりすることはできるからだ。段取りは本当に凄かった。競技の順番を登録する方法も、十数人を起用して待たずに把握できるように工夫されたし、イベントの間の準備と変更もうまくやられた。そして、私は「お父さんサポーター」として、給水係だったので、動き終わった児童に水を配ったが、その段取りもちゃんと考えられていた。障害のある児童も、参加できるように工夫した。このようにうまくするために、経験は必要不可欠だ。実際に効果のある方法を見つけるために、試してみなければならないからである。
つまり、不変な要素が継承されるなか、改善に努めている。その態度は素晴らしい。やはり、運動会は小学校にとって重要な行事であるといえる。イギリスやアメリカの学校の運動会とかなり違うので、これも日本の伝統の一つであると言えるのではないか。そして、今子供である人にとっては、数十年の歴史を持っても新鮮である、初経験にもなっている。その経験は、時代が変わっても子供には貴重であるように頑張っている。出席できてよかったと思う。
ただし、真由喜の学校では同じように精神が一般的に働いている。前にも触れたと思うが、日本で教育を受けた人は自分の意見を述べるのは苦手とよく言われるので、現在の小学校では発表する機会は多くなっている。このように取り組めば、教育の質がさらに高まるに違いない。
だから、真由喜の教育について、今のところ心配していない。算数や日本語をちゃんと勉強しているが、それに加えて自分の意見を述べたり、周りの人と組んだり、活動を企てたりできるようにも育てられている。小学校では、これは将来に必要な基礎だと私は思う。