差別と法律

川崎市外国人の意識実態調査では、差別を問題として感じた外国人市民の声は少なくなかった。その対応として、差別禁止令を市議会で可決する方針が掲げられている。実は、私が就任した多文化共生推進施策検討委員会でも、この意見を持つ人は過半数であるようだ。しかし、私は違う。私は、そのような条例や法律はない方が良いと思う。

基本的な理由は、自由を重んじることだ。前にも述べたが、自由を保障するために、悪質な行為も許さなければならない。男女差別や人種差別は原則として悪質な行為だと思うが、それも原則として許すべきであると思う。許さない行為は、他の人の自由を制限する行為である。

では、差別に対する法的な制限を課す根拠はあるのだろうか。実は、制限するべき場合もあると認めざるを得ないが、慎重に考えるべきだ。

まずは、差別的な行為は被差別者に精神的な被害を与えることは、十分な根拠ではない。東京都渋谷区の条例で話題になった同性婚を考えよう。同性婚を禁じれば、精神的な損傷を受ける人はいる。その状態は良くなくて、社会の恥べき点を露わにすることで心を痛む人もいるし、自分の人生を全く計画通りに進められない同性愛者もいる。だから、同性婚を認めざるを得ないだろうか?ただし、他方、同性婚が許されたら心を痛む人も充分いる。同時に両方の精神的な痛手を避ける方法はなかろう。だから、精神的な痛みを基準とすれば、矛盾が発生して、基準として働けない。自由な社会に生きている市民は、心の痛みをある程度耐えなければならない。ある特定された集団には痛みなしを特権を許すことはできない。

精神的な損傷は基準にならなければ、何が基準になり得るだろうか。それは、差別が社会的な問題になることだ。つまり、差別によって、被差別者の自由が制限された場合である。

例を二つ挙げよう。

まず、川崎市の調査で明らかになった住居差別だ。外国人であることだけで住居は見つけられないことは、衣食住の「住」に問題を与えるので、根本的な問題であると言えよう。この問題を解決しなければならないが、そうするために法的な措置は必要なのではないか。それでも、その措置はこの問題に絞るべきだろう。つまり、賃貸の物件の場合、国籍を理由として禁じるのは良い。このようにすれば、この問題は解決されると期待できるが、他の分野での自由に触れない。

もう一つの例は女性の社会的な活躍だ。男女平等は戦後から日本国憲法で保障されたが、女性の仕事関係はまだまだ厳しい。だから、改善を図るために法的な措置は必要不可欠であると判断できる。法律抜きに解決は期待できたら、この70年にはもう解決されたはずだから。この問題を解決するためには、雇用で男女の差別を禁止するのは良いが、零細企業や小企業を対象外としても良い。なぜなら、零細企業は、女性は自分で企業できるからだ。差別に遭ったら、別な解決策があるので、法律で企業主の自由を縛る必要はない。一方、中企業や大企業の場合、すぐに企業できるわけはないので、女性の雇用を義務付けない限り、女性の自由は制限される。

この場合でも、問題が解決されたら、法律を廃止するべきだ。もう社会的な問題が存在しなければ、このように自由を制限するべきではないからだ。法律を使わなければならない場合は確かにあるが、いつも慎重に使うべき措置である。


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