奉仕の精神

神職として働くと、その仕事内容は「神明奉仕」と言われる。つまり、神様に仕える。自分のためではなく、御祭神のために努力を奉る。

この奉仕の精神は、他の分野でも見える。例えば、先生は奉仕する職業だ。先生は、先生として、自分の成果を上げない。むしろ、生徒さんや弟子の能力を上げて、教え子の成果を期待する。先生には、自分の産物はない。そして、教え子が素晴らしい成果を上げても、先生には名誉にならない。アインシュタインの先生は知られていないし、ニュートンの先生もそうだ。(もちろん、歴史学者は知っているけれども。)言い方を変えれば、先生は脇役である。奉仕する人は皆そうだ。主人公は、奉仕を受ける人だからであろう。

最近の文化で、特に欧米の文化で、奉仕は軽視されているような気がする。先生への態度で明らかに現れる。「できる人はする。できない人は教える。」は英語の諺に近い。(「教えられない人は、先生に教える」と続く場合も。)この根源は、自分の成果を何よりも重視する精神だろう。職場で成績主義で昇進を決めることも、この考え方に基づくのではないか。

だから、もしかして、「個人主義」を憂える人は、実はこの奉仕主義の喪失を憂えるのではないかと思った。

ただし、話は別だ。奉仕することも、個人主義の一種であると言える。なぜなら、自分で自分が奉仕する相手を選んで、奉仕する方法も選ぶからだ。奉仕することは、自由を犠牲とすることではない。

確かに歴史を見れば奉仕主義を悪用した権力者は多い。徴兵制度は顕著な例だろう。奴隷制度もそうだ。奉仕することは、強制的に何かをさせられることではなく、自発的に憧れる相手に奉仕することだ。確かにそうすれば奉仕してもらいたい人には相手はいない場合もあるが、それは事実だから仕方がない。つまり、奉仕主義を掲げれば、奉仕の自由も保障しなければならない。徴兵制度だけではなく、他の職業を制限する措置も避けるべきだ。

奉仕を重視する社会は、どうなるだろう。それは予想できない。その社会の人たちが自分で奉仕する方法を選ぶので多様になるに違いない。ただし、個人個人の社会ではなく、団体になることは間違いない。個人だけであれば、奉仕できないからだ。少なくとも相手は必要だ。

もう一つ指摘したいことは、奉仕主義を掲げても、人間を奉仕する人と奉仕してもらう人に分けるわけではない。同じ人間はある場面で奉仕して、別な場面で奉仕してもらうのは良い。そして、人は偉ければ偉いほど、奉仕するのも当たり前だと思う。権力を握れば、その権力が及ぶ人に奉仕するしかない。

今のところはぼんやりした考えだが、これからこの奉仕主義についてさらに考えたいと思う。


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