最近、TRPGの業界(「業界」と言えるかな。大袈裟だろう。)で、多様性が大きな話題になっている。それは、TRPGの登場人物の多様性でもあるし、作者の多様性でもある。過去を見れば、異性愛者の白人の男性は圧倒的に多かったので、女性や白人ではない人や同性愛者などの性的マイノリティーを登場人物としても作者としても促すことになっている。
ただし、日本のTRPGの業界は、白人は圧倒的に少ない。イギリス人としてこの論争を見れば、アメリカの立場からしか考えられていないと感じざるを得ない。先日、そう言ったが、ちょっとした議論になった。私の最初の記事で、「多様性を増やしたければ、まずもうアメリカ人を雇うべきではない」と書いた。反発したアメリカ人もいたのは言うまでもないだろう。まぁ、確かに実現できる対策ではないし、できたとしても良策ではない。いいTRPGを作り出せるアメリカ人でまだ業界で働いていない人もいるからだ。
では、現実的な対策はあるだろう。
TRPGの商品は、ゲームに分けられている。私が今でも管理するArs Magicaはその一つだが、一番有名なのは、Dungeons & DragonsかPathfinderだろう。このゲームは本を一冊で終わる作品ではない。小説のシリーズが20冊に登ると長いと思われるが、TRPGが40冊を超えても、特に多くはない。多様性の単位として、このゲームを取りたい。そして、重要な多様性は、現世界の多様性である。ゲームの架空な世界は多様であるかどうかは、その世界の概念による。重要なのは、多様な世界があることだ。その世界は一つ一つ多様であることではない。
方針として、ゲームの過半数は一つのカテゴリーの人に作成されないように工夫することを掲げたいのだ。人数より、作成した分で測る。
まず、例外を掲げる。ゲームの全ては一人か二人の作者によって作られたら、多様性は問わない。作者の個性ははっきり反映されるはずだから、業界の多様性に貢献する。3、4人のチームでも大丈夫だろうが、4人を越えれば過半数を避ける基準を導入するべきだと思う。
では、カテゴリーは具体的に何だろう。まずは、国籍。ここで、「国籍」は法律上の国籍ではなく、作者の国の文化を指している。つまり、2歳にアメリカに引っ越したインド人は、アメリカ人になる。多くの場合、法律上の国籍と同じことになるが、例外はもちろんある。(私も例外になるので、この例外の存在に敏感だ。)文化は二つある人は、少ない方に数えても良い。例えば、私はイギリス人として、それとも日本人として数えられる。両方の立場を持っているからだし、複数の文化を体験した人の参加を促進するべきであるからでもある。この場合は、もしかして出版社とどう国籍の作者が過半数にならないように気をつけることになる。そして、例えば日本についてのゲームを書いたら、日本人が過半数にならないように気をつける。もちろん、日本のことをよく知っている人に限らなければならないが、外国の立場から日本について書く人を雇うべきだ。目的は多様性であるからだ。
国籍をまず確保したら、他のカテゴリーは自国で重要なカテゴリーとする。性別はほとんどの国では重要であるので、男女のバランスは必要だ。そして、性的マイノリティーの人は、第3カテゴリーとして捉えた方が良かろう。三つがあれば、過半数を避けることがより簡単になる。人種も重要である場合がある。アメリカの場合、極めて重要である。カテゴリーは白人、黒人、アメリカ原住民、ラティノ、アジア人から始まるだろう。イギリスでは、白人、ハーフ、黒人、アジア人から始まる。日本の場合、日本人、ハーフ、韓国・朝鮮人、中国人、フィリピン人、欧米人などになるかもしれない。もちろん、カテゴリーからはみ出る人もいるが、そのような人も過半数にならないように気をつけるべきだ。国によって、宗教も重要になるだろう。スリランカでは、仏教とヒンドゥー教はそうかもしれない。
もちろん、一人の作者は複数のカテゴリーに入る。それは当然なことで、いいことである。そして、一つの本を考えれば、多様性はそれほど重要ではない。特に、短い電子版しかない本であれば、作者も一人であることは多いので、多様性は無理だ。だからこそゲームを単位として考える。本ごとに作者は一人であるとしても、本を80冊出版すれば、多様性を目指せる。
これは簡単なことではない。実は、Ars Magicaは国籍の多様性に達していると思うが、それは偶然だった。一方、作者の大半は白人の男性だから、他の多様性に失敗している。そして、平等を保障する法律で、「女性を雇いたい」とは言えない場合は多い。平等を設立するために不平等な行為は必要となるのは皮肉的なのだが、事実でもある。だから正式に言わないが、少ないカテゴリーに入る人を積極的に探して、チームに入れる。方法の問題は、さらに考えたいと思うのだが、今のところこのような目的は良いのではないかと思っている。