先日、言論の自由を保障するために、有害な言論を擁護しなければならないことを強調した。しかし、有害な表現であれば、誰かが被害を負うのは決まったいる。そうでは無ければ、本当に有害な言論ではないからだね。それはどうするか。
まずは、自由な社会に生きれば、ある程度の被害を受けることに覚悟しなければならない。他の人は自分の生活を自由に送るので、回りの人には些細な被害が与えられるのは避けられない。例えば、自分の土地に家を建てたら、回りの人の眺めが劣化することもあるし、混雑な電車に乗ったら、回りの人に押されたりする。このような被害を認めなければならない。そうしないと、自由がなくなる。言論も同じだ。
しかし、これは程度によってだ。ある人が自分の眺めを改善するために、回りの人を家を壊せば、それは認めてはいけない被害だろう。言論の自由も同じだ。難しい問題は、認めるべき被害と認めてはいけない被害を区別することだ。
大前提は、言論の内容によって区別しないことだ。内容を絶対的に平等に扱うべきだ。区別は、相手との関係によってする。
まずは、有害な言論は、聞き手を不愉快にさせる言論とここで定義する。それは「合理的」などの条件はない。聞き手は不愉快であれば、有害である。例えば、私は人気アイドルの歌声で不愉快になったら、それは私にとって有害な表現になる。アイドルのファンの大多数は関係ない。
制限できる表現の候補として、聞き手をわざと有害な表現に晒すやり方はどうだろう。現実的な例を考えよう。(前にもこのようなことを載せたような気がする。)在日韓国人を反対する団体は存在する。私は、このような首長は有害な表現であると思うが、言論の自由を踏まえて、自由を確保すべきであるとも思う。お互いの会話はもちろん、自分のホームページやウェブの掲示板でこのようなことを言わせなければならない。しかし、朝鮮学校の前で繰り替えしてデモすれば、それは制限できる行為であると思う。学校に通う子供に精神的な被害を与えるからだ。同じように、在日韓国人へメールなどを直接送ることも、制限できることだ。
「制限できる」というのは、「絶対に禁止する」と同じではない。学校の前のデモを絶対に禁じるべきだろう。子供を的にする行動を許すなら、相当な理由は必要だ。一方、議員会館の前のデモは議員や秘書にとって不愉快であるが、許さなければならない。それでも、数日続いたら、止めさせても良いだろう。数日の休憩してからまたしてもまたしばらく許すことになるだろうが、このような状況に合わせた対応を考えなければならない。
同じように、ある人に一つのメッセージを送ることは、原則として制限しないだろう。1回だけだから、言論の自由のほうが重要である。しかし、多くの人がやるか、一人が繰り返すか、制限しても良い。聞き手の生活へ大きな被害をもたらすからだ。脅迫は、最初から制限しても良い。それは1回に限っても、大きな被害を与える。それに、脅迫は、被害を与えるための言論である。それは、話し手も認める。ただし、その脅迫は相手に発信しなかったら、言論を制限するべきではない。例えば、「あの人を殺すよ」と犯罪者が仲間に言っても、言葉は制限しない。行動はもちろん制限するけれども。
しかし、ここで問題になるのは、街角の広告などの環境に流れる表現だ。それによって不愉快にされた人は、どうすれば良いだろう。この問題は、後日に論じる。