回避できない表現

先日の投稿で、回避できない表現をハラスメントと位置づけたと言える。嫌いなことは繰り替えして言われたら、それはハラスメントの定義に近い。もちろん、自分でその場所を狙ったら、文句を言う資格は失う。例えば、アクション映画は嫌な思いをさせるのに、わざとアクション映画を見に行ったら、映画館には責任は一切ない。

しかし、「見なくていい」で必ず済むとは言えない。見ないために、どれほど生活を混乱させる必要があるかは、問題になる。例えば、飛行機の写真で恐怖症になる人であれば、街中に航空会社の広告があれば、家を出られなくなる。もちろん、航空会社はわざとこの人を苦しめようとしていないが、結果的にはそうだ。

この立場から考えれば、明らかに問題になるのは、公共の場所にある広告だ。なぜかというと、同じ場所に長くいるし、内容は予想できないし、一般的に考えればどこにもある。

だから、公共な場所にある広告を制限した方が良いと思ってきた。原則として、お店などの場所や役割を教える程度の看板を許すが、それ以外の広告を禁じる。お酒の広告や洋服の広告は、街角に展示することは許さない。

しかし、完全に禁じれば、それ自体が言論の自由を侵すので、許可を与えるところも必要だ。それは、特定な地区にすれば良い。例えば、渋谷駅のハチ公出口、スクランブル、センター街、道玄坂のところで完全に自由とする。この完全は本当の完全を意味する。裸な写真も、残酷な写真も法律的に許すべきだ。そのようなことは見たくない人は、その地区を避けたら良い。渋谷や新宿などの限られた場所になるので、買い物のためにさえいかなくても良いはずだ。

これで、もう一つの効果は期待できるだろう。そのような広告は少数な場所にあるので、今のような何回も見てからやっと記憶に残る広告ではない、美術作品のような工夫された広告になるのではないかと思う。渋谷などではもうそのような傾向が見られるので、さらに強くなるだろう。その上、量産の広告ではなくなったら、展示する場所に合わせて作成するようになるはずだ。つまり、渋谷では若者向けの広告になるが、例えば二子玉川にも許したら、もう少し大人に向いている広告になる。秋葉原ではオタク向けの広告になったり、京都の一部では、伝統工芸などの広告になるかもしれない。

要するに、広告主の宣伝する権利と一般の人の広告を見ない権利を均衡にさせなければならない。テレビやラジオで、もうNHKを見たら広告はないし、本を買えば広告もない。民法のドラマも、DVDなどで買えば、広告は避けられる。

このように考えれば、二つの問題が残る。一つは、偶然に嫌な表現と接する場合の扱い方だ。もう一つは、準公共な場所だ。すなわち、私鉄は、公共な場所ではないが、避けたら生活はできなくなる。この二つの問題は、後日論じたいと思う。


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