不愉快な反応と表現の自由

人によって、表現から直截に被害を受けることもある。例えば、トラウマを体験した人は、そのトラウマを思い起こす表現と接すると、心理的な痛みを感じることはある。具体例として、子供がジェットコースターで亡くなった親は、ジェットコースターを見ると深い悲しみを感じることは想像できるだろう。一方、自分の倫理観に違反する表現を見て、抑えられがたい怒りを感じる人も少なくない。この場合、納得できる例は人によって違うので、自分で想像してください。

このような問題は、どう対応するべきだろうか。自由に社会で活躍しようとすれば、このような経験に接したら妨げになるのは明らかだ。しかし、このようなことを制限すれば、他の人の自由が制限されてしまう。

原則は、ある表現の存在自体を認める。その存在を知っている人は苦しむ場合もあるかもしれないが、その場合は苦しむ人を助けようとするのは良いが、その方法は表現を禁じることではない。

そして、社会の構成を考えなければならない。ある人は、自分に被害を与える表現を避けて生活ができる環境をなるべく整える。もちろん、問題になる内容は、人によって異なるので、避ける責任は本人にある。社会の責任はその回避を可能とすることだ。だから公共の場や準公共の場で広告を禁じるなどの方針は必要だ。たまたま広告には問題になる内容があったら、大きな被害になるからだ。

しかし、そうしても、うっかり嫌な内容と接することもあると予想できる。本屋さんで嫌な本を本棚に偶然に目を掛けることとか、自分が選んだ雑誌には嫌な記事が載っていることもある。

その場合、我慢してもらわなければならないと思う。何の内容でも、本屋さんでの販売を許さなければならない。同じように、雑誌の内容は編集部の判断に委ねるべきだ。このような現象はクレームの根拠として認めるべきではない。

では、その精神的な被害は特にひどい人は、どうすれば良いのか?この場合、体の不自由な人のように、ヘルパーさんは必要だろう。つまり、本人が何かに接する前に、ヘルパーが内容をを確認して、問題になる内容を除外する。確かにこれは生活に影響を与えるが、反応はこれほど酷かったら、障害を持っていることになる。障害を持っている人の生活を可能とする工夫は必要だが、他の人の生活を障害者の生活のために犠牲としてはならない。

つまり、自由な社会に生活すれば、自分にとって嫌な内容に接することに覚悟しなければならない。その回避を余分に難しくする習慣の改善を求めるのは妥当だが、完全に回避するのは不可能であることは、社会の皆に認めていただきたいのだ。


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