私の政治的な哲学の基本は、人の実質的な自由を最大限にさせることを国の第一義務、もしかして唯一の義務にすることだ。前にもこの内容を詳しく説明したが、今回問題になるケースを考察したと思う。それは、他国に住む人の問題だ。
住んでいる国はどこであっても、人間は人間だから、国家には全ての人間の自由を増す義務があるのではないかと考えるのは当然だ。そして、ヨーロッパでの難民危機を見れば、放置しないことの重要性を痛感するだろう。一方、ドイツは総合人口の1%前後を一年間で吸収しようとしているが、それはシリアの難民問題を解決しない。隣国に避難した人はさらに多いからだ。この問題を解決するために、ドイツは国家の予算の大半を注がなければならないだろう。しかし、そうすると、ドイツの住民の自由を支えられなくなる。
だからこそこれは問題だ。一つの国家には、自分の住民の自由を増す力があるはずだ。住民は国家の力になるからだ。一方、他国に住む人はその国の力にならないので、力不足のは通常の状態である。ドイツのような大国でもそうだが、例えばオランダのような小規模な国家の場合さらに明白になる。一つの国は、世界中の問題を解決できないのは事実だ。
ただし、先進国を考えれば、人間の自由を増すことを目標としたら、同じ財源を発展途上国や内戦に陥った国に注いだら、自由の増加はさらに大きい。餓死しかけている人を救ったら、自由を確保したので、他の人にバレエをする自由を確保するより大きいのは否めない。
これは、世界の不平等が齎す問題であるといえよう。だから、その問題をなくすために、国家はより平等な世界のために努めるべきなのではないか。どの国でも、国民には自分の人生を主導する自由が確保されたら、国家は自分の住民の問題の解決と専ら取り組んでも良い。しかし、世界はそのような状態から程遠いのは事実だから、現在ならどうするべきだろう。
他国の問題を無視することは許したくない。長期的に考えれば、自国の自由に問題を及ぼすし、人道的にも酷い。他国の住民はまだまだ人間であるし。だから、具体的に何かをするのは望ましい。
まずは、危機の未然防止に努めるべきだと思う。危機になったら、もうその人の自由が著しく損なわれているし、解決策には問題があるばかりになる。シリア難民の問題もそうだ。ドイツに住んでも、難民の問題が完全に解決されるとは言えないし、ドイツにも問題が発生することは予想できる。しかし、国家の力には限度がある。未然防止策に力を注いだら、危機に対応する力がなくなる恐れがある。これで、重要な問題があると思うので、次回論じる。