平等と国家の責任

国家が国民を平等に扱うのは基本であるといえよう。自由主義の基本は、自由の平等であると言える。しかし、国民と他の人間をどう扱うべきかは、それほど簡単に答えられない。

まず、国に住んでいる国民と他国から来た人を平等に扱うべきだと思う。(当然だろう。)つまり、住民の自由を平等に考えるべきだ。投票権は難しい問題だが、過去に女性に投票権を与えなかった国家や奴隷制を認めた国家の「民主主義」の資格を疑うことは多いので、これも同じである可能性を認めざるを得ない。ただし、参政権を認めたら、国民と住民と区別が曖昧になるので、この問題は自立した問題として論じたほうが良いと思う。

では、国家の領域内に住む全ての住民を平等に評価するべきであると言っても、他国に住む人はまだ問題である。

完全に平等に扱うのは現実的ではないと言えよう。例えば、中国に住む人には日本の参政権を与えたら、日本の政治は日本の問題を反映しない。(今でもそうであると言われる、さらに顕著になるのは否めないだろう。)この理由をもう少し深く考えれば、緒になる。

中国人やアメリカ人は日本の選挙に投票できない理由は、日本の問題は日本で取り組むべきであることだ。つまり、当事者の意見や努力は重要である。当事者が問題と取り組まないと、結局解決はできない。

これは、広く該当できる。日本の政府は、日本の改善の当事者だから、特にその問題と取り組むべきだ。中国の改善は、主に中国人の責任である。イギリスの改善も、イギリス人に。その場に住んでいる人は、その場の問題をよく理解して、解決に向けて動き出ることもできる。他国での遠距離操作は難しいし、解決にはならない。

これは、他国の問題を無視する理由にはならないが、それでも自国の問題をかなり優先するのは妥当であると言える。つまり、他国のインフラに貢献しても、自国のインフラを先に整備するべきだ。教育も同じだし、災害時の対応は、自国を優先するべきだ。

この哲学は、国家だけではない、個人にも適切だと思われる。身近な人の問題と取り組むべきだ。住居の自治体に貢献するべきだ。例えば、私は娘の学校で読み聞かせをすることもあるが、そのような活動を娘の学校でするのは適切である。他の学校でもできるが、縁はないし理由もない。英語で「Think globally, act locally」と言われているが、この考え方だ。世界中の問題に配慮しながら、解決は地元から始める。これは不平等ではないと言えよう。自分はできることをする。


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