直会というのは、今神事の後の食事を指す。一般の昇殿参拝では、退く時にお神酒をいただくのは直会の略式だが、大きな祭祀の後で氏子などが一緒に食事をして、直会を行うこともある。直会の意義について、潔斎を解ける儀式である説は有力であるようだ。一方、神様と一緒に食事して、それと通して神人一体になる説もある。(神と人が一体になる説は神道の歴史には重要である。)
その上、食べ物を神様に備えるのは神事の必要不可欠な一部である。現在、神饌の多くは生で、お米や丸ごとのお魚を備えることは多いが、それは明治時代以降の習慣であるそうだ。明治維新まで、神饌のほとんどは所謂熟饌で、調理済のものだった。その場合、神様に食べ物を奉る意味は明確だっただろう。さらに、宮中祭祀の重要な新嘗祭と一代一度の大嘗祭では、儀式の中心は神様との共食であるそうだ。
食事の重要性は否めない。(ちなみに、外国人の立場から見ると、食事は日本の固有宗教の中心にあることはぴったりだと思う。)ただし、どういう風に実現するかは、明らかではない。基本的な問題は、潔斎の解除と神様と一体になる意味を持つ儀式を一体にするのは難しいことだ。神様と一体するのは、神聖の頂点に当たるはずだから、同時に潔斎を解除することはありえないだろう。
だから、別けて行うべきだろう。現行の神社本庁の祭祀次第には、共食は入っていないので、また式次第を考えなければならないので、まず直会のことを考える。直会は、潔斎の解除を象徴する儀式として位置付ける。そうであれば、具体的に実践する方法も考えられる。
まず、着替えを先にするべきだ。小祭の場合、それはただ白い法被を脱ぐだけだが、中祭の場合、和装から普段着に着替えなければならない。そして、参列者は一緒に食べる。少なくとも、飲み物も食べ物があると良い。ただし、直会と神との共食を別けたら、直会で飲食するものは、下げられた神饌とする必要はない。供物は神聖になるものだから、潔斎を解除するために、神聖ではないものを飲食した方がよかろう。一方、神様のご加護を象徴するために、お下がりを下すのも良いが、それは直会と別になる。
そう考えれば、小祭の場合、お茶と和菓子で済ませると良かろう。和食とするのは良いし、お茶は象徴的であるし、すぐに食べられるものだから、小祭の直会にはふさわしいと思う。では、中祭の場合、もう少しちゃんとした食事としたら良かろう。参列者が一緒に座って、食べると良い。そして、和食にすれば、内容は自由だろう。カフェのような存在になるだろう。しかし、直会なら、それで良い。潔斎を解除するつもりだから、くつろげる雰囲気こそは相応しい。
なお、直会にはこの意味合いがあれば、神職などは直会に参加しない。なぜなら、神職は引き続き祭祀を執り行うからだ。潔斎を解除するわけにはいかない。