神社との縁

では、氏子大祭を依頼するために、神社との縁があるのは必要とすると述べたが、具体的にどうすれば良いだろう。一つの可能性は崇敬会を作って、正会員には大祭を執り行ってあげるなどということだが、それは商売のようなことになる。神社は商売ではないことを忘れずに、形を慎重に考察するべきだ。

基本的に良い方法は、神職に任せることだ。つまり、神社との縁は、神職との絆の意味になる。よくお参りしたり、挨拶したり、共同祭に参列したりする人は、自然に神社との縁を結ぶ。しかし、問題は二つある。一つ目は、神産霊神社の規模である。架空な神社だが、神職は複数奉仕するのは明らかだろう。巫女も比較的に多い。だから、神社と縁を組んでも、神職が個人個人縁を組むとは限らない。よくお参りして、挨拶するとしても、偶然に一人の神職と対面したことさえない場合も想像できる。だから、記録は必要だ。

もう一つの問題は記録の基準である。曖昧な基準にすれば、無意識な偏見が働く場合は多い。ちょっとした抵抗感を持っている人であれば、なんとなく縁はまだ組んでいないと判断することは多い。このような現象の証拠は極めて多い。最近話題になった例は、科学の学問で、男性の研究員も、女性の研究員も、女性の研究者を男性の研究者より低く評価することだ。(成果は全く同じ場合である。架空な研究者の評価を依頼して、名前と性別を対象者によって入れ替わる方法だ。)このような問題を避けるために、客観的な基準を設けるべきだ。特に神社との縁を組むことは、基本的に排他的ではないので、ある人を認めることで別の人を認めないことはない。

そして、また理由がある。人間は、明らかな道が開かれたら、その道を歩みたくなる傾向は強い。つまり、「こうすれば、神社との縁が組める」といえば、その基準を満たすように努力する人は少なくない。一方、明記された道筋はなかったら、多くの人は何もしない。どうすれば良いかわからないからだ。

だから、「氏子崇敬会」を設けた方がよかろう。それは記録の名簿になる。会員証を発行しても良い。しかし、入会するために、ただ申込書を記入して、お金と一緒に提出することにしない方が良い。それは商売の形になるのは前述の通りだ。基準を二つ設定する。

一つは主観的である。それは、神職二人以上がある人を名簿に記入することに合意する。(神職の人数などによって、この基準を調整する。)この基準は、客観的な基準を満たさない人を氏子崇敬者として認めるための措置である。つまり、縁があるのは明らかだが、理由があって、基準に至らない。例えば、生まれてからずっと通過儀礼を神社で行ってもらって、そして共同祭に参列して、氏子祭も執り行うが、子供だったため基準に記載された行動はしていない人は、最初から氏子崇敬者として認められる。障害者も同じである。障害のため客観的な基準を満たすことはできないが、縁を組んだので認める。この判断は、神職一人に任せない。縁は一人の神職に限れば、本当に神社と縁があるのは疑わしいし、汚職などの悪用を防ぐために基本的に二人以上の合意を必要とするのは効果的であると言われる。確かに、汚職になる方法は想像できないが、念のため対策を最初から設定するのは良い。

一方、基準を満たした人は、認める。外すために、神社の理事会の決議を必要とする。(神社の理事会も考えなければならない。)明確な理由があって、拒否することはできるが、理事会に積極的に除籍する案を提案して、可決することで、無意識な偏見や認めたくない差別の影響がかなり抑えられると思われる。(殺人を犯した人を除籍する方法を用意したほうが良いので、基準を絶対的にしない。)

では、今回の投稿が長くなったので、客観的な基準の内容を、次回考えたいと思う。


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