奉納とご縁

お参りは神社とのご縁の重要の一つの側面だが、奉納も重要である。神様に何かを捧げることで、縁を組むのは当然である。この方法は、特にお金があるが時間はない人にとって魅力的だろう。しかし、基準をどうすれば良いかは問題である。

まず、お金の奉納を考えよう。他の形もあり得るが、お金は一番考えやすいのだ。まずは、小祭以上の氏子祭の初穂料は、標準であれば、奉納として数えない。その初穂料はもう参拝の評価に考えられているからだ。しかし、標準を上回る場合、それを奉納として認めるべきだ。では、金額はどうするか。一般に、崇敬会を設置する神社では、年間1万円で正会員になれる。それでも、この計画でもう少し踏み込んだ関係を目指しているので、年に1回お金を渡せば、1万円はちょっと少ないような気がする。だから、一気に3万円以上か、3年間で3万円以上の奉納を基準としたいと思う。つまり、普通の正会員を3年続けば、ご縁の要素の1つを得る。

そして、お金以外の奉納を考えなければならない。一つは、農作物である。このようなものを奉納する伝統は長くて、促したいと思う。だから、自分で育てた農作物を奉納することは、奉納の目安のひとつとする。しかし、農業を行う人は少ない。特に都会はそうだが、田舎に行っても、もう過半数ではないだろう。だから、より広い範囲を認めるべきだ。自分の作ったものを奉納することは、奉納として認める。それは絵とか、工作の結果とか、手芸など同じである。

ここで、難しい問題が発生する。それは、奉納されたものは神社にとって役に立たなければ、困らせるしかない。奉納されたものを気軽に処分することはできないが、保存すれば迷惑になる。すぐに言えるのは、神職の判断に任して、神社が受け入れない場合も認めることだが、ここで客観的な基準を設けようとしているので、神職の判断の関与は認めるわけにはいかない。

そう考えれば、必ず認める奉納品を明記するべきだ。例えば、お米は認める。他の穀物も認めるだろう。野菜などは、事情によるし、お魚や肉はさらにそうだ。生きている馬などの奉納はそもそも認めないだろう。他のものであれば、神社の維持にすぐに使えるものを認めるが、自分で質を保って作ることはできなければ、お金を代行品として奉納してもらったほうが良い。それで、神社側は必要なものを買うことはできる。一方、ものが作れる人は、神社と縁を組むために自分の作品を奉納するのは良い。

美術作品などは、客観的に評価できないので、客観的な基準に役に立たない。奉納芸はまさにその通りだ。だから、もしかして、奉納の場合客観的な基準は、お金の奉納に限るだろう。他の奉納は原則として歓迎することを明らかとしたら良いが、神職は一つ一つ判断しなければならない。


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