このブログで度々自由の重要性を強調してきた。この投稿で、再確認したいと思う。
社会的な方針は、いつもの人の自由を確保したり拡大したりするべきだ。これは、すべての人の自由を考えなければならない。権力を持っている人だけではないし、特権を持っている人の自由だけでもない。母子家庭の母親の自由とシリア難民の自由も確保しなければならない。そして、その自由は、「法律的な阻害はない」ということではなく、実質的にその人は様々なことができるような自由であるべきだ。
この反面は、誰にも別な人が何かをしない自由を保障しない。その行動は何であっても、当事者の自由を制限しない限り、最大限で許すべきである。だから、誘拐を禁じるのは妥当である。誘拐は、被害者の自由を大きく制限するからだ。同じように、強盗が自由を制限するので、禁じなければならない。一方、他の人が何かを言ったり、考えたり、書いたりすることは、周りの人の自由を制限することはほとんどない。「男は皆レープ加害者だ」という活動家もいるが、それは許すべきだ。「移民は、日本を出るべきだ」という人もいるし、それも許すべきだ。自由を保障するために、評価できない行為、いや、厳しく批判する行為を許すべきだ。批判する自由も保障するべきであるのは言うまでもないだろう。(もちろん、それは私たちを批判する人の自由を保護することも意味する。)
しかし、自由を拡大することは難しい。可能性を拓くには、努力も必要だが、方法のアイデアも必要不可欠である。簡単にできることではない。例えば、母子家庭の母親の自由を確保するために、まず収入を確保しなければならない。では、それをどうすれば良いのか。生活保護などの制度でお金を与えるために、財源は必要だが、その確保は容易ではない。そして、お金を貰えば、自分の努力が意味を失うので、精神的な問題に陥ることもある。餓死するより大幅にましだが、自由の確保ではない。実質的な解決策は安易に発想することはできない。
一方、好まない行為を禁じるのは簡単だ。「なんとか禁止!」というだけで、もうできた。そして、批判の的も提供するが、批判できる人がいるのはほとんどの人が好むことだ。SNSでの証拠はすぐに見つかる。最近、パリでのテロ事件に対して悼みを捧げる人を批判することもある。(何でレバノンでのテロ事件やアメリカでの黒人に対する暴力に対して悼んでいないのか、と。)
禁止は簡単であろうが、反発を招く。反発があるからこそ、本当の活動家であると信じる人も少なくないが、それは間違いであると私は思わざるを得ない。もしかして、反発を引き起こさずに済めないだろうが、なるべく避けた方がいよい。すべての人の自由を確保するのは目的なので、すべての人の同意を得るのは理想的である。だから、自由を拡大する行為に集中するべきであるのではないか。そうすれば、反発が少なくなる。女性の活動に反対する人は少ないが、男性には例えば女性をジロジロ見ることを禁じようとすれば、反発を招く。その上、自由を拡大する行動は、自由を拡大することは多い。一方、間接的に禁止を通して自由を拡大しようとする行動は、もしかして成功には終わらないだろう。肯定的に自由を広げてから、最後に問題になる行動を禁じなければならないかもしれないが、それは最後の段階とするべきだ。
だから、私の方針は、なるべく自由を拡大する行動に集中することだ。出来事に反応してこの方針を逸脱することもあるだろうが、そうしないように尽力したいと思う。