想像の中になれる主人公を作り出す方法はなんだろう。一つの作品ですべての必要な範囲をカバーすることはできない事実を昨日指摘したので、やり方を考えなければならない。解決策の基本は明らかだ。それは、たくさんの多様な作品を作り出すことだ。いつもの通り、詳細には鬼。(英語のことわざを勝手に日本語にしたが、「概念は間違いないが、詳細について激しい論争が発生する」のような意味だ。)
まず、作品は多様であれば、ある人にとって主人公と置き換えられない作品はたくさんある。これは回避できない。一つの作品には置き換えられる主人公を収めきれないからこそたくさんを作り出しているからだ。そして、主人公は適切ではない作品の他の要素はぴったりであることも予想できる。これは必須ではないが、運がすごくよくない限り、発生するに違いない。それに、この問題が発生する人は存在することも違いない。例えば、神道の世界観が大好きな人は、自分を神道の話に置き換えたいと思えるのではないか。その人は白人で、別な肌色の人と置き換えられない場合、適切な話は存在しないだろう。なぜなら、神道についての話の主人公は主に日本人であるからだ。(私が書いた神道についての話でも、主人公は日本人。)今の論争で、このような状態は差別の表れとして厳しく批判されているが、それは良くないと思う。批判できるのは全体のパターンだ。一部には何かがまだ作成していないことは、合理的に批判できない。(ところで、つい最近までの映画の全体的なパターンは批判できる。批判できる場合もある。)
実現するために、作者の多様性は重要だと思います。まず、多くの作者は必要だ。そして、作者ごとに自分の作りたい話を作らせる。作者は多ければ、自分と置き換えられる主人公を書いても、幅が広くなる。そして、作者は、自分は置き換えられない主人公も作る。なぜなら、作品全体を見て、このような人を中心とする作品を生み出したいからだ。長期的に主人公の多様性を確保するために、作者の多様性は重要だ。
そして、多くの作品も必要だ。これで問題が発生する。ハリウッド映画は多くない。一本に数百億円がかかるからだ。アメリカでも、一年で10本程度しか作れない。今考えている多様性には足りない。(だからこそ論争が激しくなるだろう。)一方、小説やTRPGを考えれば、一人が一年に一つを作り出すのは現実的である。確かにKannagaraには数年間がかかっているが、それは珍しいケースだ。私でも、普通の構造のTRPGであれば、一年間で作れる。普通のTRPGで自分の置き換え可能のキャラクターが欲しければ、一年間で作ってもらえる。
つまり、資本はそれほど必要としない作品を重視するべきであると思ってきた。ハリウッド映画に焦点を当てたら、問題は不可解だろう。そして、そのような作品には、多様な作者を養成するべきだ。それは、次回の問題になる。