では、多様な声を集めたとしたら、どのような環境で多様な作品を発信させるかが課題となる。
必要不可欠なのは、完全な自由である。多様な声を集める目的は、既存の人が思いつかないことの発信であるので、既存の人の管理下におけば、意味の大半を失う。
まずは、表現の自由は必要であるのは言うまでもないだろう。法律によって出版できる内容は限られていれば、新しいことをするのは難しい。そして、法律で「悪徳」なことしか制限しないつもりであっても、既存の発想にはない作品は、法律に抵触することはある。法律の恐れだけでさえ制限を感じることは多いので、法律的に自由にしなければならない。
編集者と一緒に作成すれば、編集者の指導に従わなければならない。編集者は厳しくなくても、自分の理想を持っているし、作品の概念も持っている。作成の過程で自分の概念に沿った作品を生み出す。もちろん、作者のアイデアも取り入れるが、作者の概念そのものではない。(編集者の概念そのものでもない。)これは悪いことではない。このような仕組みで良い作品を生み出すことは少なくないし、編集者も作者も一人で作れない作品の輩出にも貢献する。ただし、編集者の概念があるので、作者のやりたいことは自由にできない。
出版社の存在も同じだ。出版社が出版するかどうかは、作品の作成に大きな影響を与える。これも、必ずしも悪いことだとは限らない。外からの刺激が作者の成長に貢献するので、むしろ重要である。ただし、今まで排除された内容は排除のままになる傾向があるので、特に欠けている多様性を補うことには支障になることはある。これはただの推測ではなく、最近の事実から読み取れる理解である。出版社などは、保守的になる傾向があって、真新しい事を出版しないことは多い。もちろん、誰かが世に出して、成功にさせたら、すべての出版社は真似するが、その皮切りの成功は必要だ。
これを考えれば、作者を一人で作成して、一人で出版することは必要だ。歴史を見れば、これは無理だった。大金持ちではない限り、物理的に無理だったし、お金があっても難しかった。技術は多かったし、取得しにくかったのでかなりの才能と財産を持たない限り、出版社などに頼るしかなかった。
しかし、現在は違う。現在は、パソコンで製本できるし、ファイルの提出だけで印刷を願える。それに、必要な部数に限って印刷することも可能となっている。誰でも出版できるようになった。確かに質は良くない作品も増えるが、多様性に必要な自由の条件は、もしかして史上初めて揃っている。
それでも、条件は満たされているだけで問題が解決されるわけではない。今の絶好の状況を活かさなければならない。それをどうすれば良いのか、次回考えたいと思う。