先日、Ethicsと言う論文誌で興味深い論文を読んだ。(Eric Campbell, 2014, “Breakdown of Moral Judgment”, Ethics 124: 3, 447–480) この論文は、倫理そのものの構成について論じる。倫理について、根本的な課題がある。それは、善悪の区別の根拠は何であるかという課題である。倫理を構えるために、善悪を区別しなければならないのは明らかだが、何を基準とするかは、明らかではない。単純に「ダメなことはダメ」は通らない。それは基準にならないからだ。確かに、すべての人間が善悪の区別について同意したら、問題が実践的に迫らないが、そうではない。アイエスによると、神社にお参りするのは大変悪質な行為であるが、神道によると、自爆テロを行うことは大変悪質な行為である。このような相違が発生すれば、神道は正しく、アイエスは間違っていると論じたいが、善悪の区別の根拠は挙げられない限り、そうできない。
残念ながら、根拠を見せるのは大変難しい。数千年をかけて、哲学者がこの問題と取り組んだが、説得力のある案はまだない。この失敗にも、根本的な理由がある。根拠を挙げたら、それは何であっても、「なぜこれは良しとするか」と問われたら、はっきり答えられない。そして、「なぜ良しを目指すべきか」と問われたら、答えにくい。「良しであるかあら」と言ったら、まだ区別の根拠になっていない。ここでこの問題の不可解さを証明することへできないが、集中的に数百年を取り組んでも、哲学者は解決を見つけることはできなかった。
カンベル氏の論文で、よくある応答を擁護する。それは、答えはそもそも存在しないことだ。実際に、倫理の役割を担える存在はない。倫理は、深い意味で、幻想であるということだ。そう言ったら、この問題が解決されるが、善悪の区別がなくなる。だから、この解決にも説得力が欠けている。具体的に何が善で、何が悪かについて同意しなくても、区別は存在すると思う人はほとんどだ。その上、倫理はただの幻想であれば、なぜすべての社会には倫理は見つかるのかも、大きな問題である。カンベル氏はこの論文でその答えを掲げる。
短くすれば、倫理は社会を構成ための工夫である。意図的に講じられた工夫ではない。実は、意図的に講じたら、効果を失う。社会の一員は、倫理には特別な拘束力があると信じるからこそ、社会は構成できるということだ。倫理を信じる社会は、倫理を信じない社会に勝るので、歴史が流れたら、生き残る社会は倫理を講じる社会ばかりになった。しかし、倫理の役割はそれだけではない。倫理は、人間の決断力を支える工夫でもあると主張する。人間は、短期的な良いことのために長期的な良いことを見捨てる傾向は強い。例えば、喫煙したいのに、今回のタバコを吸うことは顕著な例だろう。倫理は、その傾向に抵抗するために作られた。倫理は、ある行動を除外することだ。「これはしてはいけない」か「これはしなくてはならない」と言うことは、倫理から発生する。これがあれば、ある失敗から自分を守れるし、社会も人の失敗から守れる。
つまり、倫理には重要な役割がある。しかし、この役割を果たすために、本人は倫理の本質に気付いてはダメだ。倫理はただの工夫であることを信じたら、その拘束力はなくなるので、また失敗してしまう。だからこそ、倫理には不思議な拘束力と信じたり、その拘束力を否定する論理に抵抗することも、倫理を維持する構成の一部であるという。
ここまでの内容は、他の哲学者が述べたことに近いし、私の考えの結果にも近いし欠点をよく補うので、私にとって説得力がある。しかしカンベル氏がもう一歩進む。それは、次回紹介したいと思う。