倫理の弊害

カンベル氏の倫理観によると、倫理の目的は選択肢をなくすことである。そうすれば、相手の行動を予想できるので社会を構成することもできるし、自分の短期的な見方とも戦えるそうだ。これは確かに利益になる。だからこそ倫理は世界中に広がっている。何も利益はない概念は、広がるわけはないだろう。ただし、カンベル氏によると、深刻な弊害もあるそうだ。それに、この弊害は倫理の内容から生じる問題ではないのである。倫理そのものの問題であるそうだ。

それを考える前に、確かに倫理の内容によって問題が発生することがあることは確認したいのだ。キリスト教の宣教師が異教の信者を殺したり、寺院などの文化財を壊したりした時に、倫理が義務付けることをしていたと真剣に信じた。私から見れば、邪悪な行為だったし、多くの場合それは倫理的な義務であると思わなかった人はしなかったと思える。人を殺すことは好きではなかった宣教師は多いと思われるが、倫理に従うために殺さなければならないと思い込んだからこそ殺した。倫理の内容を間違えたら、最悪な状態に陥ることはある。そして、ほとんどの人は、他人にはこの問題を認めても、自分の倫理観は完璧である、欠点はないと強く感じる。前回に説明した倫理の役割から考えれば、これは当たり前である。だから、倫理を間違えないことの重要性は見える。しかし、多くの分野は同じである。例えば、医学を間違えたら、命を救うはずの薬で人を殺すこともある。だから、この問題は特に倫理の問題ではない。

倫理の特別な問題の一つは、自分の行為と動機について、自分を騙す傾向であるそうだ。倫理に違反しない心理は極めて強いので、自分の行動が違反することは認めたくない。だから、言い訳を探す。「これは本当に窃盗ではない。音楽ソフトはまだ販売サイトにあるので、何も盗んでいない。私は泥棒ではない。」「正当な戦争であるので、子供が私の行為の結果で死んでも、人殺しではない。」「賄賂を受けるのはダメだが、これは賄賂ではなく、友人からの贈り物に過ぎない。」「浮気はダメだが、手や口のみであれば、浮気ではない。」このような例を枚挙するいとまがないほど作れるので、この現象はよく見えることは誰も否めないだろう。共通点は定義を重視することだ。倫理があれば、自分の行為は倫理が禁じる行為の範囲外であることは大変重要になるので、定義に当てはまらないように考えることは多い。実際に、定義は重要ではない。重要なのは、行為の本質と世界への影響である。人殺しと位置づけなくても、子供を殺したことには変わりはない。つまり、自分を理解しない動機も生じるし、自分の行為の定義を重視して自分を潔白として見えることは重要になる。

もう一つの問題はその反発であるそうだ。このように定義を偽って倫理に違反することを正当化する行為を見れば、倫理の規則を鉄則とする傾向はあるそうだ。「嘘はいつでもダメだ」と言ったら、ユダヤ人の隠れ場を知ったら、場所を尋ねるナチスに教えなければならないということになる。倫理の規則の基本は如何に良いとしても、例外なきの絶対的な存在にすれば、被害をもたらすに違いない。それに、倫理がもともと目指した状態を滅ぼすこともある。要するに逆効果も恐れられる。

倫理の目的は行為を束縛することだから、この問題は避けられない。しかし、その束縛自体も問題である。自由を奪うことはよくないと思う人は多いし、私もその一人であるが、倫理も自由を奪う。

つまり、カンベル氏の結論は、倫理自体には深刻な問題があるということだ。しかし、だからと言って何をしても良いわけではない。倫理には良い役割もあったので、ただ単に倫理を捨てれば、その利益も捨てる。その利益は、社会で生きられること、自分の計画を実現できることでもあるので、私のように自分の人生を計画する自由は重要な自由であれば、すぐに倫理を捨てるわけにはいかない。しかし、これほど深刻な問題があれば、手法についてもう少し考えたほうが良いと思っても良い。


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