倫理弊害と神道

お気付きの方はいらっしゃるかもしれないが、先の二つの投稿を神道のカテゴリーに入れたが、神道に関する内容はないと思われる。確かにその通りだが、今回の投稿でその理由を明らかにしたいと思う。つまり、哲学的な考えは、まだ神道と直接的な関係はなかったが、結び付けることはできるのである。

ちょっと復習になるが、倫理の問題は人間の短期的で自己利益中心の決め方を正すことではない。むしろ、その決め方を正す方法である。倫理の戒律によって、人が自分の動機を正直に認めなければならなくなるし、戒律に従うために周りの人に大きな被害をもたらすし、倫理の内容は間違っていれば、さらに煩いになることだ。つまり、問題は戒律そのものだ。戒律の目的は妥当であるし、必要であるが、別な方法で目指した方が良いとの結論になる。

では、神道との結び付けはどうなるだろう。

まずは、神道には倫理的な戒律はない。大祓詞に列挙される「罪」は倫理違反に限らないし、倫理制度のすべてには到底至らないので、その目的ではないのは明らかだ。そして、儒家神道には例外があると思えるが、神社神道には現在でもはっきりした戒律はない。神道には倫理感はないと言われるかもしれないが、そのような現象がこの倫理への態度に相応しい。つまり、倫理は問題であるからこそ神道が明記されている倫理を持っていないと言える。

神道がよく強調するのは、真心である。正直な心、清浄な心は神道の倫理的な話の中心になる。この意味は曖昧であるが、やはり自分の動機や価値を正しく理解し、直視することはその一部である。そして、自分の価値観を歪めずに正しく真っ直ぐに進めるのもそのような心のことであると言える。だから、戒律で自分の心理を隠したり歪めたりすることは、神道の中心的な生き方についての主張に合致する。

さらに、神道は「言挙げせず」と唱えるが、それは戒律と倫理には全く合わない。倫理を明らかにするために、言葉を使って説明しなければならない。そうしないと、何が良いか、何がダメかは分からないからだ。一方、倫理を捨てて、別な方法で共同体などを築こうとしたら、言葉で説明することは難しくなるだろう。「この行動は良い、この行動はダメ」と言えなくなるので、言葉で言えることは少なくなる。一方、祖先を見て歩むことは、戒律や倫理ではない。

また、神道の神様は必ず良い影響をもたらすとは限らない。自然災害ももたらす。これは、倫理を重視する感覚から理解しがたいことだ。しかし、倫理はなく、共存共栄を主張すれば、自然に成立するのではないかと思える。

つまり、神道の倫理観として、戒律を捨てることは相応しいと言えると思うし、カンベル氏の論文で重要な示唆を受けたような気がする。そのため、この先の投稿で、このような倫理を論じたいと思う。


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