共同体の重視

戒律のない倫理の神道的な理想を具体的に考えよう。まずは、共同体の重視を理想として、その具体策を論じたいと思う。

まずもって、「戒律のない倫理」の意味は、誰にも課す規則はないということだ。つまり、この理想を表現するための行動は、人によって違う。

共同体を重視することは、何の態度を指すのだろう。まず、共同体の存在を認めることだ。つまり、孤立した人間ではなく、ある共同体の一員であることを自分で考えるのは重要である。そして、共同体の一員として、存在を主張することもできるし、共同体を支えることもする。両方は重要である。自分の存在を主張できなければ、ただ周りの人の奴隷になるので、それは共同体ではない。一方、支えないと、共同体ではない。共同体は支え合う存在だからである。

自分の存在を主張することをより具体的に描写すれば、共同体の活動を提案したり、計画の議論に参加したりすることだ。そして、この理想の重要な一部は、それを許すことだ。例えば、共同体は氏子であるとしよう。つまり、神社の氏子区域に住む人はこの強打応対を構成する。その場合、累代続いてきてこの区域に住む人も共同体の一員だが、先ほど引っ越してきた人もそうだ。新人の主張を真摯に聞くのはこの理想の重要な側面である。祭に新しい要素を導入したいと言ったら、ちゃんと考えるべきだ。自分の提案は共同体の方針に反映されることは、共同体の一員であることを強く感じさせるし、外から来た概念は共同体の活気を齎す。しかし、真摯に聞くべきだが、必ずしも受け入れるとは限らない。適切な案である場合受け入れる。適切の基準は、場合によって違う。戒律はないので、はっきりした基準は存在しないので、共同体の裁量に任すしかない。

一方、共同体を支える方法も人によって違う。極端な例を挙げたら、ある人にはお金はあまりないとしよう。それに、労働時間は長くて、余裕は殆どない。さらに内面性は強いので、人と接することは苦手。すぐに怒ってしまう。このような人は、自分の性格や生活を見て、共同体を支えるために直接に接しないことにする可能性もある。活動に邪魔をしないが、邪魔しないために参加しない。この判断は、共同体に貢献する方法を考えた上で至った結論であれば、批判できない。

もちろん、この場合も、新人の案を受け入れない場合も、本当に共同体の重要性を考えた決めたかどうかは、疑える場合もある。その場合こそ原点に立ち戻り、自分の理想を見つめ直す。間違えたら、受け入れたり、積極的に支えたりするかもしれないが、見つめ直しても妥当な判断だったと思うこともある。

確かに、共同体では、結局決断するための措置は必要だし、その措置の構成で人間の傾向に考慮しなければならないので、共同体の場合戒律を設けるが、それは戒律の役割の問題に絡むので、後日に考えたいと思う。今日は共同体ですべての人の案や意向を認めたり、自分なりに貢献したりすることは理想の核心であると言いたいのである。


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