さて、先祖崇拝はどのような理念になるのだろう。
ここで、あの世のことを考えない。神道は、死後の世界をほとんど考えないし、非常に漠然な考え方である。ご先祖様が守り神になると言われるが、その詳細は定かではない。それは事実であるかどうかも疑わしいので、この世のことに限って考える。
基本は、先祖から受け継ぐことだろう。つまり、先祖がやりたかったことを実現する精神である。
ただし、これは先祖の希望に束縛されることではない。一番大きな理由は、ご先祖様が言うまでもなく現代に生きていなかったことだ。そのため、現代の情勢はわからなかったし、希望や計画は現代に合わない可能性もある。だから、現代に生きている子孫は、先祖の希望の精神を保ちながら、現代の情勢に整合させなければならない。詳細を修正するのは決まっている。そして、先祖には尋ねられないので、変更は本当に先祖の希望にそうかどうかは、自分で判断するしかない。戒律で定めることではない。例えば、先祖はあるところの農場を継続して欲しかったが、原子力発電所の事故でもう住めなくなった。この場合は本当に難しい。確かに、その場所は重要であった。しかし、それはもう農業にふさわしくない。耕したとしても、作物を売ることはできない。もう農場ではない。その場合、場所を別な機能で保つか、それとも別な場所へ農場を移すか、という選択肢が残るだろう。機械的に決められることではない。
もう一つの重要な問題がある。それは、先祖は現代に住んでいる子孫の性格や能力もわからなかったことだ。先祖の希望には、自分には到底できないことが入る可能性は見逃せない。その場合、先祖崇拝の理念では、先祖の希望になるべく沿って行動するが、その「なるべく」は、それほど近くないこともある。簡単な例を挙げよう。先祖は、その家を永遠まで続けて欲しい。しかし、現代の子孫は同性愛者である。子供を設けることはまずない。どうすれば良いのだろう。一つの可能性は養子縁組を結ぶことで、家を継続させる方法だ。確かに、先祖は血縁の後継者を望んだだろうが、それはもう無理である。養子縁組で近づくことはできる。
この理想を持つと、自分の好みを完全に追うことはできないだろう。もう死んだ人への責任を感じるので、別なことをする。もちろん、自分を完全に犠牲とすることもよくない。しかし、何かの理想を実現するために、苦労することは悪くないだろう。その程度を決められるのは、本人に限るからこそ、この理念を戒律にするべきではないと言えよう。
先祖崇拝をもう少し広い意味でとったら、自分の先祖だけではなく、社会の先人たちも入る。その場合、伝統を受け継いで生かすことは重要である。これで、神道の伝統を重視する精神が自然に現れる。それに社家の概念も、ここから見える。
この三つの理想、すなわち共同体、自然崇拝、先祖崇拝は、神道の倫理的な核心であると言えよう。特定の信仰の一部ではなく、神道全体と結ぶ理念である。次回、神信仰ごとの理念について考えたいと思う。