戒律の役割

戒律は、倫理の基本にすべきではないと今まで述べた。しかし、戒律を完全に捨てるべきであるとは思わない。重要な役割は二つある。

一つは、最初に触れた人間の弱点を補うことである。その弱点は、人間は目の前で見えることを、将来に入手できるはずなことより重視する傾向である。そのために、痩せるべきであることをよくわかるのに、健康への影響を感じているのに、それでも目の前の美味しそうなケーキを食べてしまう。この弱点は広く認められているが、ただ意志で克服することはできない。戒律が救いとなる。

つまり、事前に「このようなことはしない」と決めたら、誘惑に耐えられるようになる。

この効果は、二つの原因から発生するのではないかと思う。一つは、戒律自体には特別な拘束力があると信じることだ。それは倫理の特徴であるが、哲学的に考えれば、このような拘束力を生み出す性質は見つからない。しかし、戒律に従うことが癖になれば、そう感じる傾向も人間の特徴である。確かに、この効果が理解されたら、低下する。幻想であることが分かったら、無視することはできる。しかし、低下しても、まだ残るし、もう一つの効果の原因が残る。

人生の決断しなければならない状況はややこしい。それに、自分の感情によって左右されてしまうこともある。ケーキの意欲であれ、恐怖であれ、本当にやりたいことから曲がってしまう。それを防止するために、事前に方針を決めることは良い。些細なことでも効果がある。例えば、レストランでいつもおすすめを食べることにしたら、迷うことはなくなる。オバマ大統領は、毎日紺色のスーツを着ると聞いたが、それも決めなくても良いからだとも言われる。アメリカの大統領として重要な決断は山ほどあるので、スーツ選びに力を費やすわけにはいかない。この効果は、分かっても力は劣らない。自分で、このような問題を避けるためにこそ選んだ手法である。

このような戒律は、人によって違う。理想は同じであるとしても、それを果たすために必要になる戒律は、人によって違う。私は、怒ることは少ないので、怒りについての戒律は不要だ。しかし、すぐにネットなどで時間を無駄にするので、それについて戒律を作る。(あまり効かない戒律を調整しつつあるけれども。)

戒律にはもう一つの役割がある。それは、根本的に違う人の共存を可能とすることだ。ただすべての人の善意に頼ることはできないのは残念だが、事実である。戒律は、つまり法律は、その共存を可能とする。だから法律は、自由を最大限で保ちながら作るべきだ。共存を可能とするのは唯一の役割であるからだ。それ以上、人の様々な理想を果たさせるべきである。


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