まず、何を許すかという質問を考える。
最初に思い浮かぶ答えは、「他人に影響を及ぼさないこと」であるが、それは事実上寛容にはならない。ある人は私が悪徳と思う行為をしたら、私が知ったら嫌な思いになるのは当然だ。だから、私に影響を及ぼす。このような訴えは実際によく聞こえる。例えば、邪教の祭祀が自分に精神的な傷をつけると擦る人は少なくない。日本で顕著な例は、靖国神社の英霊になっている親戚を排除して欲しいとの訴訟がある。その根拠は、親戚は靖国神社にいることを嫌なことだと思うこととする。その嫌な思いは強いもので、強制的な救済を求めた。もちろん、靖国神社の神職がその人の家に行って、強制的に靖国神社へ連れて行くわけはない。そして、その人は自発的に靖国神社に行くわけはないだろう。つまり、その存在だけが問題されている。ポルノは同じように訴えられることは多い。
この影響は存在する。否定できない。しかし、寛容しない根拠として認めたら、もう寛容の意味がなくなる。だから、この影響、この傷も許さなければならない。前にも述べたような気がするが、靖国神社の例をあげたら、その人は靖国神社に祀られていなければ精神的な傷を負う人も存在する。少なくとも一人に傷をつけなければならないので、その傷自体は認めなければならない。
だから、限界は傷や損害としない。この言い方はまだまだ考えているが、次のようなことを考えたいと思う。
まず、基準は自由の制限とする。ある行為が人の自由を制限しなければ、許す。そして、傷は自由を制限しない。肉体的な傷でも、軽ければ許す。一方、明らかに自由を制限する行為は許さない。例えば、ドアの前に立って、通らせないことは、基本的に許さない。だから、塞いでいる人を捕まえて、力で退かして通るのは許す。邪魔になっている人の自由は制限されていないからだ。これも、戒律にすれば難しくなる。確かに、あの場所に立つ自由を制限する。だから、制限する行為を他の人の自由の制限を抜きに定義できない場合、それは許さない。つまり、人がドアを通れないような場所に立つ自由は認めない。あの場所は好きなら、ドアをどかすことも考える。しかし、自分の行動の費用を転嫁することも認めないので、ドアをどかす経費は、立つ人から要求する。そして、無理であれば、人が通ろうとするたびに、どいてもらうしかない。
自由が制限されても、それは被害者の心理的な反応から発生する制限であれば、認めない場合もある。これは、悪意のない場合は一番わかりやすいだろう。ある人は、白人恐怖症があっても、白人を公衆の場から排除することは許さない。しかし、悪意はあっても、寛容は悪意のある行為を許す態度だから、悪いと思っても、許さなければならない。ただし、その行為の目的はある人の自由を制限することであれば、許さない。だから、例えば、朝鮮学校の前でヘイトスピーチを繰り返すことは許さない。それは、その学校に通う子供の自由を制限するための行為であると思うしかない。一方、毎日そのようなデモを行うが、場所を転々すれば、許す。特に、その日の場所を事前に知らせたら、問題はない。そのようなことに会いたくない人は、その日にその場所を避けるだけだ。もちろん、その場はセンター試験の会場であれば許さないが、それはデモの内容ではない。センター試験の会場の周辺でうるさいことを行うことはそもそも許すべきではない。受験生の自由を大きく制限できるからだ。
つまり、問題は容易ではないが、傷や損害を基準としない。自由の喪失を基準とする。