寛容と批判

寛容は、主に悪徳であると思う行為を許す態度であると位置付けたので、寛容と批判の関係を考えなければならない。

まず、何かの行為に対して寛容的な態度を持っていれば、批判しないと考える傾向は見られるが、そうではない。悪徳だと思う行為を批判するのは当然であるし、禁じられたら自分の倫理観を表すことへできなくなる。つまり、批判することは、寛容を否定しないと強調したいのだ。

具体的な例を挙げよう。私は、人種差別的なヘイトスピーチを倫理的な違反であると思う。するべきではないことだ。そうする人は、人間として劣っていると思うし、友達にはなりたくない。一緒に働きたくない。そのような人は、自分の行動を考え直して、改善するべきだと思う。一方、そのような行為を法律などで制限してはいけないとも思う。それだけではない。法律以外の民間の行動で防止するべきではないとも思う。

批判するが、阻止しない。これは寛容の基本だと思う。確かに、微妙な組合である。普段、強く批判するものを阻止する行為を当然だと思うだろう。だからこそ、寛容は容易ではない。

では、もう少し具体的に考えよう。批判は、いつ阻止になってしまうだろう。

自分のブログなどで批判することは、阻止にならないので適切である。やっている人には、ブログを読む必要はないし、特にその作者の意見を重視する必要もない。特に権力や関係を持っていない人は、批判しても問題にならない。もちろん、批判のやり方によって、それも批判すべき行為になるだろうが、その批判の根拠は、寛容が欠けていることではなく、批判の言い方は乱暴すぎるなどのことになる。(自由は、法律の唯一の根拠となるべきであろうが、倫理の唯一の要素ではない。)

では、その人を探して、直接に批判することはどうだろう。原則として大丈夫だと思う。倫理違反の人を直接に批判できないと言ったら、倫理についての議論に大きな支障となるし、表現の自由を制限する。そして、批判を無視することはできる。ただし、繰り返してすれば、それは相手の行動を制限することになるので、それは許さない。そして、批判のやり方は、その行動を阻止することになれば、それは許してはいけない。辞めることを促進することはできるが、邪魔になることはできない。

批判だけではなく、友達にならないことはどうだろう。これも、原則として許す。相手は、他の友達を作ることはできるからだ。しかし、そう考えれば、その人と友達になっている人は、悪い人の友達の行為は他に問題なければ、友達から除外するのは良くないと思う。それは制裁措置のようなことで、悪質だと思う人の行動を阻止しようとする行動になりかねない。

仕事はさらに難しい。職場での行動が他の同僚の仕事の妨げとなれば、原則として解雇としても良い。同じように、職場でそのような行為をしないし、公表しないことを強いることも良かろう。仕事以外でできるからだ。ただし、仕事以外の行動を理由に解雇することは、疑わしい。つまり、週末にはヘイトスピーチデモに通う人を、そのために解雇すべきではないのではないだろうか。サービス提供はさらにそうだ。レストランに入らせないなどは、してはいけないだろう。レストランの中の行動を制限することはできるといえども、レストランの外での行動を理由に拒むのは良くない。(暴力団員対策の法律は、この視点から見れば問題である。)

このような社会であれば、如何に嫌われた行動であっても、他の人の自由を制限しない限り、できる。社会一般は悪質だと思ったら、もちろん毎日嫌な思いにさせられるが、それは仕方がない。社会の評価が欲しかったら、自分の行動を変えるか、社会の意見を変えるかは選択肢である。しかし、やらされたら、そして買い物や外食、宿泊、雇用もやらせられたら、社会の態度は寛容であると私は思う。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: