最近、『神社新報』で憲法改正について読んでいる。皇室などの話題は取り上げられるのは言うまでもないだろうが、家族も重要な課題として浮上する。しかし、私は、憲法で家族に触れるべきではないと思っている。この投稿で、その理由を説明する。
まずもって、憲法というのは、三権を縛る法律である。直接に立法を縛るが、間接的に行政と司法の活動にも制限を課す。(間接的にというのは、立法はその制限を緩和する法律を立法できないからだ。)一般家族は、三権と関係はないので、憲法とそもそも関係はない。
しかし、私の憲法観と違う人は多いようだ。その人によると、憲法の使命は日本の国柄を表すことであるそうだ。日本では家族や思いやりは重要であるので、憲法で個人の権利だけではなく、家族などの条を加えた方が良いと主張する。
これは大きな間違いであると思うのだ。
仮に憲法に「家族は支え合うべきである」との趣旨を持っている文章が盛り込まれたとしよう。国民は魔法的に支え合うようになるだろう。ならないのは当たり前だ。急に家族のイメージが変わるのだろう。これもないだろう。今でも、家屋が支え合った方が良いと思う人はほとんどだと思うし、そう思わない人は、憲法に書いても意見がすぐに変わるはずはない。憲法の魔法には何も期待できない。
しかし、魔法に頼らなくても良いと言われるかもしれない。憲法には家族の規定があれば、法律を作って、その理想的な状況を保つ。では、法律にも魔法の力は期待できないので、現実的にどうなるか、考えよう。
まず、刑法にしたら如何だろうか。家族の支えは不十分な人に、罰金や懲役を科すだろう。懲役はありえない。これは虐待ではない。これは支援不足である。刑務所に入れたら、家族を支えることは全くできない。そして、刑務所を避けるために家族を支えることは、理想から程遠い。しかし、このような行動をどうやって発覚すると思われるだろう。家族間の関係を把握するのは、家族である。つまり、親が子を訴えたり、子が親を訴えたりすることになる。
民法にしたら、同じだ。訴訟で、親が子を相手取りとするか、兄弟同士の争いになる。
この場合、家族の個人は、自分の権利を強調する。家族からの支援を得る権利があることを、裁判所で主張する。家族の規定を擁立する記事を読めば、このような出来事を促したいとは到底思えない。個人の権利を重視したくないからだ。しかし、憲法の規定では、それしかできない。ある人に義務を課すと書いても、事実上それは義務の成果を受ける人に権利を与えることになる。家族は、個人の権利の争いにさせたくなければ、法律を作るべきではない。
もちろん、もう一つの目的は想像できる。それは同性婚などを違憲とする狙いである。これも断じて反対する。家族を重視することは、家族を構えることを禁じることではない。むしろ、家族を重視すれば、法的に容認された家族を構える権利を憲法で保障すれば良い。同性婚や多夫多妻の結婚を容認しないことが違憲となると思われるが、三権を縛る規定だから、憲法にふさわしい。しかし、そのような規定は、保守派は擁立するはずはないだろう。