倫理観

このブログで、政策などについてよく書くことがある。最近の選挙制度についての投稿もそうだが、傾向として強かった。しかし、私は政治家ではない。川崎市の委員会に参加させていただいているが、その立場の影響力は強くないし、対象範囲も限られている。そのため、政治的な投稿を実現することはできない。神産霊神社の投稿も同じだ。確かに実現するために書いているわけではないが、神社の描写の形をとるとしても、実は私の神道と神社についての知識や考え方を確認するための投稿である。それも価値があるので、またそのテーマに戻るつもりだが、暫くの間実現出来るテーマについて考えたいと思う。そのテーマは倫理である。

倫理は簡単な問題ではない。人生の生き方の基本であるが、まず何がその範疇に当てはまるかは明らかではない。他の人に対する行動に限るか、自分に対する行動にも及ぶかは一つの問題となる。(自分に対する行動にも及ぶのは主流だが、最近自由主義でその流れが弱まったようだ。)そのような問題と取り組むのは必要だと確信する。解決するのは無理だろうし、仮に可能であるとしても時間も苦労も必要であるはずだ。その事実を踏まえたら、倫理について考えながら生きてゆくしかない。それでも、最初からの倫理観はなくてはならない。「ただ自分の欲望に従う」としても、それこそは倫理観である。それに、倫理観というのは、善悪の区別だけではない。効果的な生き方も指す。

倫理は、やりたいことを禁じる制度であるとよく考えられるような気がするが、それに加えて社会に生きられる方法である側面も強い。その上、人間は社会に生きなければならないので、人間にとって必要な手法であるとも言える。例えば、周りの人にはよく嘘をつけば、信じてもらわない。信じてもらわないと、助けをもらえない。助けをもらえないと、孤独死してしまうこともある。窃盗や詐欺が蔓延する社会では、落ち着いて生活を企てることはできないので、そのような社会の構築に貢献したほうが良い。

だからこそ社会の継承させる倫理から始まったほうが良いと思う。過去から受け継ぐ倫理は、少なくとも使える倫理であることは、実践によって保障されている。大きな問題がある可能性は十分ある。(例えば、150年前のアメリカの継承される倫理観は奴隷制を擁護した。)しかし、今すぐ最悪の結末になってしまう可能性は低い。その可能性は大きかったら、たくさんの人には問題があったはずだから、その倫理観はなくなったと思える。つまり、判断できる前に社会の倫理観を受け入れたほうが良いと思う。しかし、奴隷制を許すほどの問題がある場合にも配慮して、考えられるようになったら、自分の倫理観を鍛えながら生きてゆくべきである。

これからの投稿で、私の倫理観について考えるつもりだ。これは実践できる内容でもある。


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