このブログを読んでくださった方はもうお分かりになると思うが、私は自由を重視する。自由主義者である。法律などを考えれば、もしかして自由主義だけで国家の構成を構築できるのではないかと思うほどだ。なぜならば、住民の実質的な自由を確保するために、社会保障や安全保障、治安、教育、科学研究や医療、インフラなどが全て必要となるからだ。これ以上の活動は、国家でも能力は足りないかと思うほどだ。少なくとも、自由の確保からまだまだ程遠いので、今のところ他の目的を考えなくても良い。
しかし、個人の倫理の場合は違う。ちょっと考えたら、明らかになる。自由主義は、各々の個人には自分の目的を追わせることは基本的だ。その目的の内容について、何も言わない。何も言わないことは、自由主義の基本性質であるとも言える。しかし、個人から見れば、内容について何も言わないと、目的は成立しない。目的を持つために、その目的は何であるかと把握しなければならない。つまり、自由主義は個人の倫理の一部に過ぎられない。
そう認めたら、一部になるべきかどうかが問題となる。そうとは決まっていない。国家が住民の自由を確保するので、法律の許す範囲で個人が他の人の自由に気にせず行動すれば良いのではないか。社会の立場から見れば、その通りだ。自由な社会であれば、住民の目的は自由と関係しなくても良い。それは目的の内容を定めない方針の一部である。しかし、個人から見れば、そうとは決まっていない。自分の倫理観の一部として、自由を重視することはできる。
しかし、自分の自由を重視することはできない。個人の倫理観は自分の行動を導くためである。他人の行動を導くための規則は、社会的な規則であるし、前述のように自由主義に基づくべきである。しかし、自分で自分の自由を制限することはできない。自分が決めたら、それは自分の行動である。麻薬に依存しても、それは自分の決意だから、自分の自由に反しない。自分の自由は、自分の決めたことをさせることに過ぎないので、自分の行動のための模範にはなれない。倫理の役割は果たせない。
だから、自分の倫理観を考える場合、自由は他人の自由に限る。自分の行動で、他人の自由をどう考えるべきであるか、という問題である。自分に直接に関わる内容もあるはずだが、その内容は「自由」ではない。その内容はより具体的で、定まった目的があるべきだ。
それでも、自由主義者であれば、他人の自由を自分の倫理観で考えたほうが良いと私は思う。少なくとも、私は、他人に対する倫理観を考えると、他人の自由を保障することを重視したいと思う。倫理観の考察の出発点は、他人の自由とする。