他人の自由の促進

今まで、消極的な自由尊重を論じてきた。つまり、相手の自由を損なわないようにする行動に止まっている。このような配慮は重要であるのは言うまでもないが、これだけで良かろうか。むしろ、相手の自由を支持したり、促進したりするべきなのではないか。

積極的に考えれば、問題が難しくなる。日本で身近な比喩で考えよう。「消極的な平和主義」というのは、単純に戦争を犯さないことを指す。現実的な状況を考えれば、本当にそうするべきかどうかが難しくなるが、「平和主義」を尊重する行動は指摘しやすいのだ。一方、「積極的な平和主義」を掲げれば、一体何の行動を指すのだろうか。事前に戦争の勃発を防ぐ行為であろうが、それは例えば中国で民主主義活動家の支援のことだろうか。独裁的な政府と対話をして、自由度の改善を促すことだろうか。平和維持活動に兵隊を派遣するか。派遣すれば、どこの平和維持活動に派遣するか。積極的に取り組もうとしたら、どういう行動は効果的であるかも問題になるし、それが分かっても、活動できる選択肢の中からどの場面で活動するべきかも問題になる。

積極的な自由支持も同じ問題がある。例えば、大きな決断をしようとする人に情報を提供することは良いのではないかと思われるが、アメリカで中絶を抑制するために、中絶を考えている女性に胎児のことを詳しく教える義務がつけられている。これは、本当に自由を支持するかは明らかではない。そういう目的ではないし、そのように受け止められていないので、そうではないだろう。では、情報提供をどう講じるべきかが問題となる。

そして、誰の自由を促進するべきであるかはまた問題になる。国家の政策を考えれば、主に自分の住民の自由を促進すべきであると言えるが、それは国家の構造から言えることだ。人間にはそのような構造はない。家族の自由を考えるべきである可能性は高いが、人間であることから決められるわけではない。

ここで、説得の場合よりも明らかに倫理の範囲に入る。つまり、何かの基本倫理を決めないと、自由の促進についてどうするべきかは、決められない。何かをするべきだと強調したくても、具体的な方針はそれで出てこない。この事実を踏まえて、自由主義を擁護するからといって、人には具体的な行動を勧めることはできない。消極的な場合で、強制的に要請できるが、積極的な場合、すると良いと言えるが、それ以上は言えない。他の要素を導入しなければならない。

次は、その「他の要素」の概要について論じたいと思う。


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