倫理観の基礎

倫理観のないように移る前に、背景についてちょっと論じたいと思う。倫理学で、大きな問題として論じられているのは倫理の基礎である。人間は、どうやって善悪の区別はできるのか、そしてできたとしても、何の根拠で他の人に強いるのか、という問題である。一つの文化しか知らない人にとって、この問題の緊迫性は明らかではない。なぜなら、周りの人は善悪について異論を挙げないからだ。つまり、善悪の区別は誰にも明らかであると思い込んでしまう。しかし、多文化共生の時代に入ったら、別な文化から来た人と接して、倫理観が異なることがわかる。その場合どうすれば良いかが目の前の問題になる。

これは自由主義の発生の源になっていたと言えよう。

それでも、問題が残る。解決策として人気になったのは、「仮に全ての人間は平等な状態にいたとしたら、どういう倫理制度に同意するのか」という質問を基本として、倫理制度を構築することだった。しかし、私はその方法に賛同できない。理由は二つある。まずは、仮に人をそのような状態に置いたら、どう決めるかは、どうやって知るのだろう?実際に、哲学者はその状態を想像して、決めることになるが、哲学者ではない人はそのような状態になったら、別な選択肢を取るのだろう。その上、「仮に、現実と違う状態だったらこれに賛同する」ということは事実であるとしても、現実との関係は明らかではない。仮に私は同性愛者だったら、男性に一目惚れになるだろうが、それは実際のこととは関係はない。

もちろん、「この倫理制度は神様が下した」という根拠は根拠になれない。神様は様々だし、心理制度の内容も様々であるので、正しい神様を選ばなければならない。その問題は、倫理制度選びより難しいのではないか。同じように、「私の良心は明らかにこれを善とする」というのは、良心が同意しない人にとって説得力はない。

そうであれば、どうすれば良かろうか?

社会の構成では、正しい倫理観はわからないが、禁じるわけにはいかない。つまり、倫理的な自由をなるべく確保するべきだ。そうするために、他人の出来事に関与する権利を制限しなければならないが、その制限を最低限に抑える。その制限に賛同しない人はいると思われる。(実際にすれば、他人の行動を制限することはできないと言われる人は強く反発する。)しかし、その人を自由にさせたら、別な人が自分の自由が侵されていることを訴える。ここは、自由と自由が葛藤する状態だ。そして、ある人の自由を優先する理由はない。そのような理由は、倫理観からしか出ないからだ。結局、社会構成のレベルで、自由をなるべく確保するしかない。悪徳な行動を許すのは確実であるが、悪徳な行動を強制するよりましである。

では、個人のレベルはいかがだろう。個人のレベルで、自分の倫理観を選べばよい。個人の倫理で、自由を尊重しなくてもよい。しかし、その倫理観には客観的な基礎はない。ただ自分の好みによっての選択肢である。音楽の好みより遥かに重要なことだが、他の人が別な倫理を選んだとしても、音楽の好みが違うことと同じく、批判するべきではない。自分の倫理観をなるべく魅力的に見せて、他の人の賛同を得るようにするのは良いことだろうが、強いる資格はない。(もちろん、根拠や資格はなくても他人を批判しても良いと主張する倫理観を持つ人もいるだろう。その場合、むやみな批判をこちらから批判することはできないが、醜さを指摘することはできる。)

そのため、これから説明する倫理観には、拘束力を持つ根拠はない。ただし、前にも述べたように、自分の行動が良い方向に行くように、自分の行動をこのルールで縛るつもりだ。他の人は、同じ規則は魅力的であると思ったら、ぜひ同じようにしてください。


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