提案する倫理観の基本は、評価する目的である。具体的な行動は、その目的を見つめながら判断する。そして、他人の自由を尊重する信念がこの目的の前提となる。つまり、他人の自由を侵して目的を求めてはいけない。目的は三つあるが、まず「発見」を紹介する。
発見というのは、新しく知識を得ることを意味する。この新しい知識は自分に新しいか、人類に新しいか、いずれも良い。もちろん、人類にとって新しい知識を得るのは容易ではないので、自分の知識を増やす行動はより一般的であると思われる。そのため、その側面から始めたいと思う。
自分の知識を増やすことは、勉強することである。もちろん、静かなところで本を読むのは適切な勉強方法である。私は大好きな方法でもある。それでも、唯一の方法ではない。直接に何かを経験することも勉強する方法の一つである。例えば、神道に興味を持てば、神道についての本を山ほど読むことで、知識を貯めることはできる。そして、実際に神社へお参りして、お祭りを経験することで、さらに神道についての知識を貯めることはできる。
そして、勉強する内容も様々であろう。学べることは無限であると言っても良い。文字通り「無限」ではないだろうが、人生の中に学べる内容は、選べる内容のわずかな一部に過ぎない。私は、イギリスと日本の文化をある程度理解するが、まだまだ無知の分野は多い。そして、中国の文化はほとんど知らない。モンゴルのそうだ。アフリカの各国のそれぞれの文化は存在することがわかるが、詳細はわからない。文学といえば、インドの文学はほぼ未知である。やろうとしたら、いずれかの一部を勉強することはできるが、すべて勉強できるわけはない。一人の人間であるからだ。
だから、この目的を持ったら、二つの重要な選択肢がある。何を勉強するか、そしてどうやって勉強するか。これで、何も言わない。自分の興味や性格に合っている分野と方法を選べばよい。ただし、知識を積極的に求めるべきだ。本を読むこととしたら、時間を割いて戦略的に本を選んで、計画的に読むべきである。そうしないと、結局知識が増さないだろう。効率的な勉強方法を探すのも重要だが、勉強の対象を勉強方法としない限り、それはメーンではない。とにかく、勉強することだ。
勉強すれば、ただ読んだり、見たり、食べたりすることではない。頭を動かして、理解しようとしたり、深層まで貫こうとしたりすることだ。例えば、テレビゲームを勉強することは適切であろうが、そうすればただ遊ぶだけではなく、構成などを考えて、テレビゲームの歴史や業界をわかろうとするのは良い。
そして、勉強することは、他の生きている人が知って、公開する知識を得ることと定義しよう。そうではない知識を得ることは、研究である。例えば、千年前の日本の和歌を研究すれば、当時の人が知ったり、共有したりした内容を発見しようとするが、現在の人の知らないので、勉強ではなく、研究である。一方、現在の記者が陰謀を明かそうとすれば、それも研究であるが、現在の人が知っているのは明らかだ。しかし、公開しようとしないので、勉強ではなく、研究にあたる。それに、科学研究は人類は今まで知ったことはないことを発見しようとする行動だから、一番純粋な発見であろう。
この発見は、何のための知識ということではない。知識のための知識である。知識を増やすことは、最終目的である。唯一の最終目的ではないが、他の目的のためのことでもない。そして、発見を最終目的とする根拠は見せられない。前にも述べたが、これは私の倫理観である。他の人にとって魅力的であれば、共有してほしいとしか言えない。