外国人の神社信奉者

では、これまで語ってきた活動は、神社神道の布教活動にあたるかどうか考えたいのである。

すぐに問題にぶっつかる。神社神道を布教することは、一体なんだろう、と言う根本的な問題だ。外国に住んでいる外国人が神社神道の信奉者になることは、具体的になんの状況を指しているかは不明である。

そもそも、神社神道には教義はない。ある内容を信じることで神道の信奉者になるわけではない。神社本庁に包括される神社の神職になるために、ひとつの条件は「神道を信奉すること」であるので、全国の神職は信奉すると思われるが、その内容は何だろう。神社で神明奉仕をすることは大きいと思われる。同じように崇敬者などは神道を信奉すると思われるが、それは神社と深く関わっていることによって証明されている。つまり、神社との深い関わりは重要であろう。

ただし、海外には神社は鎮座しない。深い関係を築くことはできない。(百万長者で日本に通える人を除く。)この基準では、神道の信奉者にはなれない。

では、家庭祭祀を行うことにすればどうだろう。確かに毎朝神棚の前で神拝すれば、神道の信奉者であるといえよう。それに、これは海外でもできることだから、この問題と関連する。そして、家庭祭祀は毎日ではなくても、信奉者に当たると言えるのではないだろうか。月に2回の1日と15日の伝統を受け継いだら、それも十分だろう。しかし、神棚を設けるだけであれば、どう言ったら良いのだろうか。日本で、ただ伝統文化を継承するために設ける家庭も存在すると思われるが、海外で日本の伝統文化を受け入れるために設けたら、どういう風にみなすべきなのだろう。

神道に深い興味を持って、神社などについて勉強したり、日本旅行で参拝したりすることは、信奉者であるとは限らないことも明白だ。このぐらいの関係は、神道に対して否定的な態度を保つ学者も満たす。肯定的な態度を持っても、興味に過ぎなければ、信奉者であるとは言えないのではないか。

一方、日本人の場合を考えれば、特定な神社との深い関係や毎日の家庭祭祀などを条件とすれば、神道の信奉者は極めて少なくなるのではないか。明白な基準はないのはいうまでもないが、考え方としても極めて曖昧である。

この事実を踏まえて、外国人向けの活動は布教活動ではないことは言い切れると思ってくるだろう。この活動に真心で乗ってくれる人でも、結局信奉者にならないことは多いからである。確かに、信奉者になる人も存在するかもしれないが、その人を指摘することも大変難しいのではないか。

この現象は、神道は日本の文化に深く絡み合っている事実から発生すると思われる。神道を日本の文化から分離して考えようとすれば、なんと言ったら良いのかは不明になる。できるのは当たり前だが、その独立した状態は普段の前提に反する。要するに、目的は神社神道を外国人に紹介することに止まらせた方が良いと私は思う。


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